「『雲隠れ』すればいい」

「え?」

「協力するぜ」

目の前で笑う男の低い声は、明らかに楽しげな響きを含んでいる。

「でも…」

彼女が、ためらっているのを追い打ちをかけるように…

「心配させてみりゃあいい。あいつを、よ」

「そんな…何だか試すようで」

「気にする事は、ねぇよ。宿には、俺から連絡しておく」

「……………」

眦を伏せ、あの出来事を思い出す度に、彼女の胸が痛んだ。

 

仕事中、彼女が郵便を出した帰り道、
歩いて曲がり角を曲がった所で、足が止まった。
すぐには自分の見えているものが信じられず、
凍りついたように動けない。

上司の後ろ姿と…その胸に女性が強く抱きしめられている。

動揺し、それ以上、二人を見ていられなくなり、
慌てて、引き返してきてしまったが…。

顔は、よく見えなかったけど…きっと…美人なのだろう。

ぼんやりと、そんな事を考えながら。

 

「…予定は…?おい、さっきから何を呆けている?」

はっ、と我に返れば、斎藤は、いつも通り不機嫌そうな表情で
自分を見つめている事に、ようやく気づいた。

「…あ、す、すいません」

いけない…

動揺しながら、自分の失態を謝れば、上司は椅子から立ち上がり、
近づいて来る。

「午後から、おかしいぞ。具合でも悪いのか?」

額に触れてこようとした斎藤の手に反射的に
思わず顔を背けてしまった彼女だった。

「………?」

手は途中で下ろされた。

何でもいいから、言い訳を考えないと…

「と、時計が…何だか調子悪くて。いつの間にか、
止まってしまったみたいです」

電池が切れたみたいです、と左手を挙げてみる。

華奢な手首にチェーン型のシルバーの時計が嵌めてあるのを
見せた。

下手な言い訳を彼は見抜いているだろう。

だが斎藤は無言のまま、手首に触れると身体を強張らせた彼女を一瞥し、
そのまま手のひらを返して、時計を見下ろす。

目を伏せたまま尋ねてきた。

「気づかなかったのか?」

「え、ええ…。高くはありませんけど、愛着は、あるんです」

親指が手のひらから脈の上へと移動する。

「あ、あの…」

もうそろそろ、手を離してくれないか…と言おうとした時だった。

「そのうち買ってやる」

「!?」

顔を上げた彼女に、訳もないという口調で斎藤は言った。

「時計ぐらい安いものだ」

「……まるで……愛人みたいですね」

「愛人?」

上司は何か言いかけたが、彼女は悲しそうに微笑み、
するり、と掴まれていた手を引いた。

「やっぱり体調が悪いみたいです。今日は早退させて下さい」

 

通りを歩いていた彼女の背後から突如、聞こえてきたクラクションの音に
首をめぐらせれば、高級車が止まった。

ドアが開き、降りて来た男を見て彼女は驚く。

「取引先から社に帰る途中だったんだが、あんたが歩いているのを
見つけてな。
どうしたんだ、こんな時間に?まだ退社時間じゃねぇだろうが」

「……土方副社長」

「サボりか?」

「……………」

黙って俯く彼女に土方は自らの腕時計を見る。

「ちょうどコーヒーが飲みたくなったところだ。
つきあえよ」

 

車に乗せられ、土方に連れて行かれた喫茶店は、
アンティークが飾られている落ち着いた雰囲気を持つ店だった。

コーヒーを頼んだ後、

「で、何があった?」

ライターで煙草の火を点けながら尋ねる。

「別に、大した事じゃないんです」

隣の椅子に手を掛け、土方は顔を上向きにして煙草を一息吐き、

「それなら、何で、今にも泣きそうな面してんだよ?」

どうせ、あいつ絡みだろう?

そう、言ってのけた。

「………副社長に嘘は、つけませんね」

「そんな事は、ねぇ。
ただ、あんたより少しばかり経験積んでるだけの事だ」

土方は見事に話を引き出し、
彼女は、その日あった事を詳しく語ってしまっていた。

「………ちょっと離れているが、
温泉があって、ゆっくり出来る宿を知っている」

「は?」

しばらくの間、空に視線を彷徨わせていた土方が
やがて灰皿に煙草を揉み消しながら、唐突に話題を変えたので、
何を言い出すのか?と彼女は見つめていた。

「のんびり一人旅でもしてきたら、どうだ?
疲れている時には、気分を変えるのに、もってこいだろ?」

「………私が、ですか?」

「俺も一緒に行きたいところだが…、」

その言葉を聞いた途端、困った顔になった彼女を
土方は意地悪気に笑う。

「ちょっと前に、やったばかりだし、
そのツケが回って来て…チッ、あれ以来、社内の奴等は
厳しく目を光らせてやがるから、
ここん所、休みが取れやしねぇ…。」

ま、それなりに…いい思い出には、なったけどよ…。
そう言って思い出したのか土方は、ふと懐かしげな表情を見せた。

「斎藤には内緒でな」

しばらくの間、逡巡した後、ついに彼女は頷いた。

「…………はい」

社へ戻る車の中、土方は書類を見ながら、考える。

あの馬鹿…好きな女ぐらい、
繋ぎ止められねぇで、どうする?
不器用なのは俺も人の事、言ってられねぇが…。

ま、せいぜい苦しみな。

油断していると、ついつい笑みが浮かんでしまう。
土方は口元に手をやって、それを抑えた。

その日のうちに出発する事に決めた彼女は、

こんな事して、いいのかしら?

自宅に戻り、荷物の支度を始め出した。
思い出しては悲しくなってしまう気持ちになるのを努めて、
考えないようにしながら…。

 

電車に乗って、二時間ばかり。

宿に着いた頃には、日が暮れていた。

「いらっしゃいませ」

ここなら、ゆっくり寛げそうな和風旅館だ。
彼女は改めて、土方に感謝する。
玄関先に和服を着た女将が挨拶に出て来た。

「すいません、突然押しかけてしまって…」

彼女が女将に謝れば、

「土方様のご紹介の方なら大歓迎でございます。
折良く、キャンセルが出ましたので良かったんです」

そう言って微笑む。

荷物を持ってくれた女将に
泊まる離れへと案内され、その部屋に入った時、
床の間に大小の日本刀が飾られているのに気がついた。

「あれって、本物ですか?」

「はい、真剣でございます。実は…」

女将が言いにくそうに答えるには…

この宿の主人は骨董の刀を集めるのが趣味で、多数の刀剣を
蒐集してきては、倉の中へ保存しているという。
日頃から、肌身離さずその倉の鍵を大切に持ち歩いているが、
しかし今日に限って、主人は留守で、昼間に刀は届いた。
当然、鍵は持ち歩いているので、仕舞う事が出来なかったのだ、と。

「主人は明日帰る予定ですので、
キャンセルが出たこのお部屋に置いてしまいましたが。
京都からわざわざ、取り寄せた刀とか…。
骨董って、古い物でしょう?
ましてや刀なんて、誰を斬ったものか分かりはしませんし。
お嫌なら、別の場所に移しますけれど」

そう女将は言ったが、
彼女は気にしないから、と答えた。
こっちで無理を言って、押しかけて来てしまったのだ。
客の立場とはいえ、これ以上、煩わせたくない気持ちがあった。

温泉に入り、夕食も申し分ないほど、美味しかった。

ふと床の間に飾ってある刀に近寄っていき、
刀掛けから、刀を持ち上げる。
ずしり、と重い感触が伝わってきた。
鞘をおそるおそる、少しだけ抜いてみれば、
きらめく刃に自分の顔が写っている。
真剣など普段見たことないが、
どこか異様な感じを受けた。

誰を斬ったものか分かりはしませんし…

女将の言葉を思い出し、
何だか少しだけ怖くなって、鞘に納め、彼女は刀を元通りに戻した。

夜も更け、明かりを消して、敷いてもらった布団に横になり、
暗くなった天井を見つめていたが…

思い浮かんで来るのは、上司の事ばかりだった。

枕元の置いてある携帯を引き寄せ、見つめる。
電源は切ったまま…。
自分の部屋を出た時、以来だ。

心配してくれているかしら?
もしかして、あの女性と一緒なんじゃ…?

溜息を吐き、そのまま携帯を置くと、布団を被った。

どれくらいの時間が過ぎたのだろう?

人の話し声が聞こえてきた。

もう朝かしら…?

目を開けてみたが、部屋は暗いまま…だ。

「では長州の会合は、五日後に…」

「いまいましい壬生の狼どもが…」

今度は、はっきりと聞こえた。

起き上がり、彼女は様子を見ようと襖を少しだけ開けた時、
突如、人影が立ちふさがり、悲鳴を上げかけた彼女の口元を
すっぽりと手で強く押さえつけられた。

「声を立てるな…。あまり暴れるならば、斬る」

聞き間違えようのない、そして容赦ない声だった。

そのまま、身体ごと引きずられて、明かりの灯った部屋へと、
連れ込まれてしまう。

彼女は口を塞がれたまま、行灯に映し出された男の横顔を見れば、

一瞬、息が止まるほどに驚いた。

鋭い眼差しで前方を見ている。

斎藤部長!?

羽織袴姿で長い髪を結い上げていたけれど―。