「どうした?」

「今、何か物音が聞こえなかったか?」

「物音?この部屋には誰も近づけさせないよう言いつけたんだが―」

「見て来る」

早足の足音が近づいて来る。

わずかに舌打ちしたのが、耳に入った。

「協力してもらうぞ」

そう言いざま押し倒された直後、
着ている浴衣の裾をはだけられ、
膝に触れてきた手は、そのまま下へと撫でてゆく。

ひやり、と冷たい感触に、
上げかけた悲鳴も口を押さえつけられたままだったので、
わずかに、くぐもった声だけが漏れた。

乱暴に襖を開ける音がした。

覆いかぶさっている男は神経を鋭敏に張り詰め、
肩越しに相手の動向を窺っているのを彼女は間近で見ている。

もし相手が自分達に少しでも不審を抱いたとしたら…
この人は、すぐさま斬りかかるだろうと、彼女は悟った。

「チッ、お取り込み中かよ…」

入口の男には二人の姿が、さぞ艶めかしい姿態をさらしている
男女に見えたのだろう。
何事もなく襖は閉められた。

やがて隣の部屋にいた男達は、用を終えたらしく
皆、出てゆき、
しん、と静まり返った沈黙だけが空間に残る。

「行ったようだな…」

見下ろす男に彼女の口は、いまだ覆われており、
膝にも手が置かれたままだ。

本当に部長と瓜二つだ…そう思って見ていると、

「このまま続けるか?」

その言葉に目を瞠った彼女を真っ直ぐに
見下ろしながら男は重ねて問う。

「一人寝に飽きていたんだろう?」

横目で彼女が寝ていた布団を目をやり、

「待っていた男が来なかったか…
男が別の女に心変わりして逢う約束を反故されたか…」

「…………っ」

その通りではなかったが、全く違っているともいえない。

同じ顔で、同じ声で言われたその言葉は
彼女を容赦なく傷つけるには充分すぎる程だった。

男は眉をひそめる。

自分の手が濡れてゆく。
眦から伝い、どんどん零れてゆく彼女の涙のせいだと気づいた。

「全く…」

彼女は覆われていた口元を解放され、
倒されていた身体も引き起こされた。

「泣くな」

「そ、そんな事、言ったって…」

止めようと分かっていても、
一向に涙は止まらず彼女が顔を両手で覆って
しばらく経った後だった。

深い溜息が聞こえ、頭の上に何かが被さってきた。

何だろう?

目をこすって見てみれば、黒羽織で五つの紋が
白く染め抜かれ、それは今まで男が着ていたものだった。
温もりが残っている。

「それで顔でも拭いてろ」

いつの間にか部屋の隅に置いてあった
膳の上の銚子を自ら盃に注ぎ、飲んでいる。

「……………………」

飲んでは次々と銚子を空にしてゆく男を見ているうちに、
彼女は微かに笑い声をもらしてしまった。

「泣きやんだか?
泣いていたかと思えば、もう笑っている。
おかしな女だ」

じろり、と不機嫌そうに睨んでくる男に、やはり上司の顔が重なってしまう。

また懐かしそうな表情になった彼女に、男は目を細め言った。

「さっきから人の顔を見て何を考えているのか知らんが――」

「似ているんです」

「想う男にか?フン、迷惑な話だ。
勝手に俺と、そいつを同一視されては適わん」

そうかもしれない…。

男は盃を煽り、また手酌で注いだ。

「来ない待ち人をいつまでも待っているのは
時間の無駄というものだ。
未練がましくいつまでも想ってないで…」

「私は…元々一人で、ここに来たんです。
……日本刀と一緒でしたけど…」

「刀?」

殊の外、すばやく反応した男は飲んでいた盃を置き、
立ち上がると彼女が寝ていた部屋へと入って行ってしまった。

「…………あ」

止めようと、腰を上げかけたが再び座り直す。
彼女は首をめぐらせて薄暗い部屋を見回してみる。
行灯の灯る明かりが揺れれば、
衝立に映る大きな自分の影も揺らいだ。

いざ一人になってみると殊更、時間が長く感じられ、
何だか取り残されたみたいだ。

ここは一体、どこなのだろう?

今まで考えている余裕もなかったけれど…

隣の部屋にいた男の人達といい、

部長と良く似たあの人は…?

手に持つ羽織を見ながら彼女は考える。

テレビか映画の時代劇で見るお侍さんの格好をしているし。

この部屋だって普段、
あまり見かけない調度が置いてある。

もう一度、元いた部屋に戻れば…

安易すぎる考えかもしれないが、今はそれしか術がない。

それにしても…遅い。

何か起きたのかもしれない、と急に心配になって、
彼女は慌てて立ち上がり部屋へ入ろうとした時、
男が刀を携え、戻って来た。

「どこに行く気だ?」

「戻って…来ないから…」

「茎(なかご)を外していた。切った銘を見たかったんでな。
…無銘だった」

鯉口を切り、
一気に鞘から刀身を抜いて行灯の明かりに翳す。
鋭く直視する眼が金色を帯びて光り、
そんな男の様子を彼女は黙って見ているしかなかった。

「これをどこで手に入れた?」

「そ、それは…私のではなく、宿のご主人が買われたそうです」

「二尺五寸、地肌は板目肌、打粉してあるだろうが、
研ぎ上げた為につぶされてしまう地肌と刀紋も
さほど酷くない。悪くない刀だ。
明日にでも詳しく尋ねるとするか…」

独り言のように、つらつらと呟く。

「……刀がお好きなんですね」

「刀は唯一、己の身を守れるものだからな」

信頼出来るものだ、と男は言った。

「人よりも…ですか?」

「愚問だ」

「………………」

闇の中で光っている白刃の揺らめきを見ているうちに、
彼女は半ば無意識に手を伸ばしていった。

「……っ」

刃をかすめた人差し指に、赤い血が滲む。

「切れるに決まっているだろう、阿呆」

刀を鞘に戻して傍らに置くと、男は彼女の手を取った。
そのまま顔を寄せ、傷口の血を唇で吸い取る。

「あ、あのっ、自分で手当しますから!!」

だが男は、引こうとした彼女の手を離さず、

「黙っていろ」と言った。

きつく吸われ、傷口だけでなく頬にも熱を帯びてゆく。
彼女は唇を噛んで耐えていたが、ようやく離れると、
ほっと、身体の力を抜いた。

「あ、ありがとうございます…それと、これも」

借りていた羽織を差し出しながら礼を言い、
彼女は顔を上げた。
男は黙って羽織を受け取ると、
しばらくの間、何ともいえぬ表情で彼女をみつめていたが、
やがて両目を伏せた。

どうしたんだろう?

「……お前が少しでも暴れたりしたら、
俺は女だろうと容赦なく斬ろうとした。
だから、礼なんぞ無用だ」

「でも…斬られませんでした」

「運良く、な………血は嫌いじゃない」

「………え?」

伏せていた琥珀を彼女に向ける。
憂いを帯びた眼だった。

「鬼が棲みついているんだよ。
血を求めて止まぬ『人斬り』という鬼が。
この先もずっと抱え…生きねばならんだろうな」

この身には――

溜息混じりの、まるで他人事のように、
平らかな声で淡々と語る。

「それを…消して…
長い時間を重ねて…そうやって忘れる事は出来ないんでしょうか?」

男は微かに笑った。

「お前は、どうなんだ?」

「………私………」

「想う男を消し去るのは簡単か?
時間をかけて、その男を忘れ去る事が出来るのか?」

二人の姿を見た時、傷つき嫉妬が湧き上がってきたのだ。
浅ましさを見せたくなくて、嫌われたくなくて…
何よりもそんな自分を認めたくなかった。

彼女は足元を見つめていたが、やがて顔を上げると
強く首を振った。

「そうか…さて、そろそろ戻る刻限か…」

「あ、あの…本当に…」

「礼は無用だと言っただろう。何度も言わせるな」

部屋から出ようとする間際、

「目に見えるもの全てが真実だとは限らんさ…」

そう言い残し男は出て行った。

 

 

「斎藤さん」

振り返ると柳の下から提灯を持った若者が出て来て、近づいて来る。

「お迎えがあるとはな…ご苦労な事だ、沖田君」

「副長のご命令ですよ。
子供じゃないんだから一人で帰って来れるって、
言ったんですけどね。
首尾は、どうでした?」

「上々だ。詳しい報告は副長にするが…」

「…おや?」

いきなり羽織に顔を寄せて来た沖田に斎藤は眉を寄せる。

「何だ?」

「何だか良い匂いがしたものですから…。
でもお香の香りじゃないな…何だろう?
それに斎藤さん、いつもと雰囲気が違いませんか?」

「フン、気のせいだろう」

「隠してないで教えて下さいよ。
何か良い事でもあったんでしょう?」

子供のように興味津々の表情で尋ねる若者を
横目で見て、
ふう、と溜息をつき、そっけなく言った。

「良い刀があった」

「それだけじゃないでしょう?」

「…………女」

「密偵中なのに、やるもんですねぇ…。
あ、確かあの旅館でしたよね。
部屋は、どこでした?」

「二階の奥から二番目だったが…」

「まだその人、いるんでしょう?
斎藤さん、ちょっとこれ持ってて下さい」

提灯を預け、沖田は走って行ってしまったのに、
斎藤は再び溜息を吐いて、
仕方なく彼を待っていたのだが…

間もなく、
首をかしげて帰って来る沖田に斎藤は尋ねた。

「どうした?」

「変なんですよ、斎藤さん。
宿の人に聞いてみても日本刀なんてないし、
そんな女性も宿泊していないって言うんです。
念の為、二階も見て来ましたけど…」

誰もいませんでした…と、
沖田は残念そうに告げたのだった。

「斎藤さん、誰と逢ったんです?」

「さぁな」

「一目惚れだったんでしょう?」

「…………手放せなくなったかもしれんな。
目に見えるもの全てが真実だとは限らん…か…」

何故、別れ際に、この言葉が出てきたのか…

斎藤は振り向き、旅館を見上げた。