「歓迎会」の翌日だった。

酔いつぶれてしまい、挙げ句の果てに上司に看病させてしまったという

自分の失態に激しく落ち込みながら部長が来るのを私は

そわそわしながら席で待っていた。

何を言われるんだろう?


昨夜、目が醒めた後、

私は宴会の座敷へと戻ったものの、すでに部長の姿は見えず、

礼を言うきっかけがなかったのだ。


ドアが開き、部長が入って来た。

すぐに彼のところへ行き、

自分の非礼を詫びたのだが、

「大した事じゃない」と彼は言う。

逆に、「どこまで憶えている?」と聞かれた事に私は戸惑ってしまった。

酔いを醒ます為に、一人で庭を見ていて、それから部長が来たことまでは、
記憶に残っているのだが、二人で何を話していたかまでは、
断片的な記憶しかない…
そうして座敷で目が覚めた。

その事を最初に告げ、半ば、おののきながら聞いてみた。

「私…そんなに変な事…言っていたんですか?」

部長は額に手を当てて、見るからに不機嫌そうに何事か考えている様子だったが、
やがて私を見ると、言った。

「また忘れたフリをしているんじゃないだろうな?」

その意味を分からずにいる私の様子に溜息を吐き、
やがて仕事の指図を出し始めたのだった。

厳しいのは、いつも通りだったけれど―――

 

また別の日の事だ。

やっと一仕事終えてパソコンの画面から顔を上げた時、

いつの間に部屋から出て来たのか、部長がドアに寄り掛かり腕を組んで

私の顔を見ているので、ひどく驚いてしまった。

気配など全く感じさせなかったのだから、無理もない。

「…何か、間違っていた箇所でもありましたか?」

提出した書類にミスでもあったんじゃないかと、内心ひやりとしながら、
尋ねてみた。

「それは、なかった」

物思いにふけるように、私の顔を見つめているのだ。

「部長、私の顔に何かついてます?」

こちらとしては、どうも落ち着かなくて仕事にならない。

「そうじゃない」

「じゃあ、どうして?」

「フン…そんなのこっちが知りたいくらいだ」

そう謎めいた言葉を残して部屋へと戻って行った。

どうしたというのだろう?

 

仕事休みの週末。

気分を変えようと、私は買い物に行くことに決めた。

わりと明るいの色の新しい服を数着買い、

ショーウィンドウをぶらぶら歩きながら、眺めていた時だった。

きれいに化粧されている女の人のポスターが目に止まった。

名前は分からなかったけれど、今、流行りの女優さんなのだろう。

口紅の新色のPRらしい。

ポスターの下の方には、何色もの口紅の写真が載せられている。

その女性の美しい唇が象徴的に撮られているが、

見ているうちに…何か分からないが、引っかかるものを感じた。

歓迎会の日――意識がなくなる直前に……部長が………?

「よろしければお試しになってみません?
この口紅は、出たばかりなんです」

はっ、と我に返った時、私の横には同い年ぐらいの女性の店員が立っていた。

「え?いえ、私は、ただ見ていただけですから…」

断ろうとしたが、相手は、とっておきの営業スマイルで私に微笑む。

「お時間おありなら、ぜひ試していって下さい!!」

考えてみれば、この後、特に用事はない。

ついに折れて、私は店員に案内されるまま、店のカウンターへと
連れて行かれた。

座らされて、目の前には丸い大きな鏡があり、自分の顔が映っている。

いつも見慣れている顔。

とりたてて美人という訳でもなく、ごく普通の顔…。

店員も目の前に座り、

「お客様は、お肌が白いから、この色が映えると思いますよ」

そう言って数色あるうちの口紅から、やや濃いめのピンク色を一本取り出すと、
私の顎を上げて、リップブラシで輪郭を描き始め、ゆっくりと唇の上を塗ってゆく。

「少し唇を開けてもらえます?」

言われた通りにすると、今度はリップペンシルを出して、口の角にラインを入れていった。

仕上げに、とグロスをされ、

勧められるまま鏡を見れば、現金なもので、
さっきとは違った自分に思えてくるから不思議だ。

「おきれいですよ」

お世辞か、化粧の出来映えに満足しているのかもしれないけれど、
そう言われるのは、やはり嬉しい。

「彼氏も、きっと目を奪われますわね」

彼氏?

一瞬、面影がちらついたが、すぐに打ち消した。

もう一度、鏡に映る自分を見つめてみる。

結局、塗られた口紅、リップペンシル、グロスを
私は買ってしまったのだった。

通りをうろうろしているうちに、一休みしようと行きがけにあった喫茶店へと
入ることにした。

二階へと案内され、窓際の席に座れた時は疲れていたせいか、思わず溜息が漏れてしまう。

周囲を見てみると、休日だというのに、さほど混んではいなかった。

水を持ってきたお店の人に、コーヒーを頼んで、

待っている間、外の景色を眺める。

初めて会社に面接に行った日も、こうして窓際に座って、
コーヒーを飲んでいたっけ…。

面接は散々な結果に終わり、当然落ちただろうと思い込み、
落ち込んでいたけれど、すぐに思い直し、何とかなるだろう、と
一人言い聞かせていた時に…

背後には、部長がいたのだ。

引きつけられてしまうほど、深い琥珀の瞳だった。

今でも恥ずかしくなってしまう。
あの場所では、自分一人だと思っていたのに…。
焦っていたせいで、周囲を見ている余裕などなかったのだ。

多分、最初から最後まで…大いに呆れ、さぞかし変な女だと
私の様子を見ながら部長は思っていたに違いない。

まさかその時は、自分の上司になる人だったなんて、
考えもしなかったけれど。

初めて上司との顔合わせをした時、喫茶室で会った人だとすぐに分かり、
羞恥心から、とっさに
「会ったことない」と嘘を吐いてしまった。

それ以来、私のやっている仕事には特に厳しすぎる…
と、私一人が思っているだけではなく、
他の部の人も言っているらしいから、
多分、本当の事なのだろう。

何が部長の気に障っているのかしら?

普通に仕事をしているつもりなんだけど…。

その時だった。

何か…視線みたいなものを私は感じた。

誰かに見られている?

喫茶店の中からではなく、外側から…だ。

二階から下の通りを見てみたが、普段通りにたくさんの人が歩いていて、

私を見ている人などいない。

気のせいかしら?

首をかしげていると、ようやくお店の人がコーヒーを持ってきた。

「お待たせしました」

お店の人がコーヒーをテーブルに置き、

「それと…待ち合わせのお約束をしていたという方もお連れしたのですが…」

背後に立っている部長を振り返った。

「俺にも、コーヒーを頼む」

突然の事に、何も言えないでいる私の顔を見ながら、注文を告げ、

かしこまりました、とお店の人は下がっていった。

向かいの席に座り、ぽかんとしている私を見つめた。

「そんなに驚くような事か?」

テーブルの上の灰皿を引き寄せ、煙草を取り出すと火を点ける。

「……今日は、スーツ姿じゃないんですね」

あまりに間の抜けた事を私は言ってしまった。

黒無地のタートルネックに黒のジャケットという、私服の出で立ちを見るのは
初めてだ。

煙草を口から離し、一息吐くと、

「今日は休みなんでな」と言った。

この人の前だと、どうしてこうも落ち着かなくなってしまうのは、
何故なんだろう?
もっとちゃんとした落ち着きある大人の女性でありたいと自分では
思っているのに…。

頼んだコーヒーにミルクと砂糖を入れて、スプーンでかき混ぜる。

「部長は…このお店を前から御存知だったんですか?」

とっさに思いついた話題を口にしてみた。

「知らんな」

そっけない返事に、
どうして?と私が顔を上げた時、

「通りを歩いていたら、ガラス越しに姿を見つけた」

それじゃあ、あの視線は彼だったのか…
そのまま通過してくれれば、良かったのに…。

「目を奪われた…尤も、これは最初から変わらんが――」

自嘲か投げやりなのか、そう言って笑った意味を聞こうとした時、
タイミングよくコーヒーが運ばれてきた。

すぐには飲まずに、煙草を吸い続けている。

「さすがに休日だな」

下の通りを歩いている人達を見ながら彼は呟いた。

「何か用事でもあったんですか?」

「休みは自宅に引き籠もっていると思っていたか?」

「い、いえ…」

「刀の……いや、大した用事じゃない」

何か言いかけたようだったが、その話題には触れたくなかったようで、
口を閉ざし、短くなってきた煙草を部長は揉み消した。

いつしか私も通りを歩いてゆく人達を眺めていたが…

「変えたのか?」

だしぬけに言われた言葉の意味が分からず、私は部長に目を戻した。

「口紅を…。いつもと違うようだが」

目ざとい。
男の人って、そういうところを見ているものなの?

「これは…買い物ついでに立ち寄った化粧品売り場で、
新色が出たというから、つけてもらったんです」

「ほう」

この後、どんな皮肉が返ってくるだろう?
私は一瞬身構えたが――

「いい色だ。良く似合っている」

「…………」

「鳩が豆鉄砲食ったような顔するな。俺が褒めるのが、そんなに意外か?」

「……い、いいえ、あの…ありがとうございます」

とりあえずお礼を言ってみたけれど、
戸惑って、つい余計な事まで口に出してしまった。

「店員さんも『彼氏もきっと目を奪われますね』って言ってくれて…」

「そういう男がいるのか?」

一変、鋭い眼差しと口調になる。

「そんな事…部長には関係ないと思います。
部長だって好きな女性、いるんでしょう?」

私は言い返したが自分の言葉に、ちくりと心に痛みを覚えた。

どうやら、彼を怒らせてしまったらしい。
椅子の背もたれに上半身を預け、両腕を組み目を細めた。

関係ないだろう、と同じ答えが返ってくるかもしれない。
それとも、あっさりと肯定する言葉だろうか?
もし、そうだとしたら…

「人がいて良かったな。
いなかったら、すぐにその口を塞いでいたところだ…この間のように」

「どういう意味です?」

「自分で考えろ」

私の唇を見つめて、ふいに立ち上がる。

テーブルに置かれた多すぎる紙幣に私が抗議する前に、
「じゃあな」と一言残し、行ってしまったのだった。

 

目の前に残された部長のコーヒーカップを見ると、ほとんど
飲まれていない。

温くなった自分のコーヒーを一口飲み、落ち着くと、
癪に障ることだが彼に言われた通り、考えてみた。

歓迎会の時、部長が私を看病してくれた。

酔いで意識を失いかける間際に、部長の顔が間近になってきて…

私は自分の唇に触れた。

あの日…目が覚めた時と同じように。

その途端、頬が熱くなってゆく。

互いに酔っていた…と片付けてしまったけれど。

ふと周囲を見渡した時、すでに空きテーブルになっている事に気づいた。

他にもお客さんはいたが、離れているので、こちらの席は見えないだろう。

私は買ってきた口紅とコンパクトを取り出し、唇に塗ってみた。

コンパクトの鏡に目を伏せれば、色づいた自分の唇が映っている。

そして、もう一つ…私は思い出した。

『彼氏もきっと目を奪われますよ』

そう言われた時、

浮かんだのは、部長だった事を―――



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あとがき

5000HIT御礼駄文です。
いつもながら遅くて本当にすいません(謝ってばかり^^;)
今回は「彼女」の一人称で書いてみました。
ブログに書いた「いつもと違った感じ」とは、この事だったのです。
1000HIT御礼の続き…になってます。

やっぱり両思いよりは、こういう不透明で脈略のない駄文の方が、
すぐ書けるし楽だなぁ…と思いました。
(部長は大変だけど…^^;)

この話のきっかけは、某化粧品CMからなのです
(ブログ1月22日参照)
春はまだ先ですが、口紅に合わせて
ページを
桜色に統一してみましたv

お読みくださり、どうもありがとうございました^^


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