自分が望もうが、望むまいとに関わらず、
事件とは起こるものなのだ。
ある日突然に、何の前触れもなく…
「あ、時計が動いてない」
雪は振り子時計が止まっている事に気づいた。
針で縫い物をし始めてから大分過ぎた頃。
集中していた為に疲れが出てきたので、
一息つこうと思い、いつものように
時を知らせてくれる柱の振り子時計を見上げたのだ。
どうしようか、と雪は迷う。
「斎藤さんがいれば、余裕で届く高さなんだけど、
私じゃあ…」
しかし、普段動いている振り子が止まったままでいるのも
習慣からか、不自然であるし、時が分からないのも、
とかく不便だ。
やっぱりここは自分でねじを巻き、直すしかない。
決心がつけば、即、行動…。
踏み台になりそうな物はないか、と雪は周辺を見回し、
丁度良い小型の台が見つかった。
「これで、いいか。あれ?何か脚が少しぐらぐらしてるけど…」
その台を時計の掛かっている柱の前に持っていき、
置いて、片足ずつ載ってみる。
「よいしょっと。あれれ?少し高さが足りないかも…。
う〜ん、もうちょっと…」
小柄な彼女には、台に載っても時計には届かなかった。
だが諦めずに何度も背伸びを繰り返し、ようやく指先が届きかけた時――
「おい、何をしている?」
「わっ!!びっくりした!!あ、斎藤さ、きゃあっ!!」
いきなり呼び掛けられ、勢いよく振り返った拍子に、体が揺れ、
ぐらついていた足元が大きく体勢を崩した。
雪は畳に強く頭を打ちつけてしまった。
誰だろう?
自分の名前を繰り返し呼ぶ声に、うっすらと目を開けた。
最初に見たものは、自分を覗きこんでいる――男の人だ。
とても心配そうな光を帯びている…琥珀の瞳で。
きれいだ。
素直に、そう思った。
「あたた、私…」
雪が頭を押さえ、起き上がろうとしたが…
「動くな。頭を打ったんだから、しばらくそのままでいろ。
しかし、意識が戻ったから大事ないと思うが…。
念のため、近くの者に医者を呼んでくるよう言ったが…」
心底ほっとした様子で、横になったままの雪の額に
壊れ物を扱うように触れてくれる。
目を閉じれば、ぼんやりと頭を打ちつける前に視界に入った白い手袋が浮かんだが、
ゆっくりと…それは消えていった。
「雪…」
自分の名を呼ぶ低い声に雪は目を開け斎藤を見る。
何かが、おかしい。
斎藤は眉を曇らせた。
意識はある。
しかし、食い入るように自分を見つめ、何も話そうとしない彼女の名を
もう一度呼んでみた。
「おい、雪?」
ようやく唇を開き、聞けた言葉に斎藤は己の耳を疑った。
「あの…あなたは、どなたですか?」
「じゃあ、お雪ちゃん。私の隣にいる人の名前は?」
「緋村さん」
「その隣は?」
「薫さん」
「もひとつその隣」
「弥彦さん」
「一番端っこにいるガラの悪そうな男」
「左之助さん」
「オイオイ、誰がガラが悪ぃって?」
左之助は、不平を言う。
「それじゃあ、最後に、さっきから私達とは一番遠くにいて、
腕組みして庭ばかり見てるあの無口な警官の男は?」
指を指された方向を向き、雪は必死に思いだそうとするのだが、
考えれば考える程、思い出せずに結局、首を振るしかなかった。
「ふうん。頭に、たんこぶが一つだけ。
これは、じきに治るから大丈夫として。
問題は記憶喪失の一種なんでしょうけど、
きわめて稀な例ね。
自分の名前や一般常識や親しい人達の名前は覚えているんだけど、
そこの不良警官の事に関しての記憶が、すっぽり抜けているなんて」
女医である高荷恵は、美しい頬に指を当て、
首を傾げて、考え込む姿勢をとる。
「しっかしよぉ、よりによって一緒に住んでる斎藤の事を
一切がっさい忘れちまったって事は、ある意味、幸せな事かも
しれねぇぜ。
人生一から出直しで、目出てぇかもな」
斎藤をひやかすつもりで、左之助は言ってみたが、
全く相手にしていないというように、無言のままである。
「シカトされてるじゃねぇか、左之助。
ったく、ガキじゃあるめぇし」
弥彦が脇で溜息を吐く。
「う、うるせぇ」
剣心は、そんな周りに苦笑いしながら、おや?と気づいた。
雪が斎藤を見つめている。
斎藤も気配に気づいたのか、何気なく雪の方に顔を向けると、
彼女は頬を染め、慌てて俯いてしまったが。
普段、心の内を見せようとしないこの男は、何を考えているのか?
こんな状態の雪殿をどう扱ってゆくのか、大変でござるな…
「恵殿、記憶は戻るものでござろうか?」
何か検討はないものかと、剣心が恵に尋ねると、彼女は頷き、
軽く微笑んだ。
「ええ、剣さん。いつになるかは分からないけれど…」
「お雪ちゃん、何か困った事があったら、いつでも言って頂戴ね。
私達が力になるわよ」
薫が雪の手を取り、明るい声で励ますと、その場にいた者が頷き合う。
皆とは離れた場所にいる、ただ一人を覗いて――
「ありがとうございます」
頭を下げ、笑顔で感謝する雪。
その様子を横目で見た斎藤は、僅かに目を細めた。
「ねぇ、剣心。記憶のないままの斎藤と暮らすのも大変なんじゃない?
やっぱりうちで、預かった方が…」
帰る道すがら、ずっと気になっていた薫は
剣心に自分の心の内を話していた。
「自分が手抜き出来るかもって…多少は思ってるんだろ、薫?」
弥彦が口を挟むと、
「ち、違うわよ!!とにかく心配なの。
何せ、相手は、あの斎藤なのよ。記憶があった時は、
好きだという自覚があったから、やってこれた訳だし」
「『無の状態』でござるからな。
何にせよ、雪殿自身の問題でござるよ。
ただ、失った記憶を取り戻す時間が、どのくらいかかりそうなものか…」
そう言うと、剣心は斎藤と雪がいる家を振り返る。
「恵さんは、心に強く衝撃を与えるような事をすれば、
戻る例もあるって、言っていたけど…」
「強い衝撃…でござるか」
何事か真剣に考え込む剣心を薫は、脇でじっと見守る。
しばらくすると、剣心の口元に笑みが浮かんだので、
どうしてもそれが知りたくて裾を引っ張りながら、尋ねた。
「何か良い案でも浮かんだんでしょう、剣心?」
「あの…」
「何だ?」
剣心達が帰った後、不調でないのであれば、体は普段通り動かしても大丈夫という
恵の許可を得たので、夕食の支度を調えた。
向かい合って最初から、ただ無言のまま斎藤と食べ続けている雰囲気を
変えてみようと、雪は、そっと声をかけてみた。
「そ、その…私達って、いつもこんな風に黙ったまま
食べているんですか?」
おそるおそる聞いてみる。
「俺は仕事で家を空ける日が多い。
そんな訳で家にはお前一人だ」
やけにそっけない返事だなぁ、と思いつつ、
「そう…なんですか」
と雪は言うしかなかった。
語尾がだんだん小さくなってゆく、と自分でも分かる。
俯いて手に持ったお椀の中に入った汁物を
ぼんやりと見ていた。
美味しく食べているという感情も湧いてこない。
食べ物を口に運んでいる動作を何となく繰り返している、
そんな気がした。
また沈黙が続いたが、
どうしても尋ねておかねばならないと思っていた事を
思い出し、再度口を開いた。
「あ、あの、すいません。もう一つだけ」
「何を遠慮している?
それに何だって、そんなに、びくついているんだ?」
返ってくる相手の口調が荒いので、
「…ごめんなさい」と思わず謝ってしまう。
「何故、そこで…」
斎藤は一旦口を閉ざし、
「まぁ、いい。何だ?」
幾分、和らいだ口調になった感じに
安心感を覚えて、ようやく雪は話す事が出来た。
「私達って、一緒に住んでいるんですよね?」
「そうだ」
「私達は…夫婦ではないと聞きました。
でも一緒に住んでいるって…だから、やっぱり…その…」
「――何が言いたい?」
顔色ひとつ変えずに、こちらを見返す視線はとても鋭いものに
感じられ、ますます委縮し、雪は身を強張らせる。
「い、一緒に寝なくてはいけないんでしょうか?」
ぎゅうっと目を瞑って相手の怒鳴り声を待っていた。
しかし、いつまでもそれがないので、目を開けて、そっと相手を伺うと、
沈んだ眼差しで自分を見つめる斎藤に雪は、ひどく驚く。
「―――自分で決めろ」
そう言うと、斎藤は部屋から出て行った。
一人残された雪は、振り子時計を見上げる。
振り子は静かに揺れながら、時を進めていた。
膳を片付けながら、
ひどく悲しい気持ちになっている自分に気づく。
一番大切なものをなくしてしまったのでは、ないかしら?
ぼんやりと思った。
床に横になった斎藤は、今日一日の出来事を思い返していた。
多忙だった仕事も一段落し、数日ぶりに帰宅したのだ。
玄関でいつものように、戻ったと告げたが、
いつものように出迎えに来る筈の彼女が来ない。
奥に入っていくと、雪が一所懸命に身体を伸ばし、
ぐらつきながらも時計を取ろうとしている光景を見た。
あそこで声を掛けたのが間違いだった。
驚いて振り返った雪は、体勢を崩してしまい、
畳に頭を強く打ってしまった。
抱き止めようとして、間に合わなかった自分に
酷く苛立ちを覚えている。
意識を失った雪の名を何度も呼んでみたが、
目を覚まさない。
このまま意識を取り戻す事がないのでは…と、
背筋が寒くなった。
自分には、ありえないと思っていた恐れすら感じた。
大切なものを失う事への怯え――
落ち着かず、斎藤は寝返りを打った。
近所の者に医者に使いをやり、雪が目を覚ますのを
見守っているしかない、それだけの自分に腹が立って、
ただ時間だけが過ぎてゆくのを待つしかなかった。
その間、どれだけ長く感じられた事か。
ようやく雪が目を開き、自分を見た時には、安堵が広がった。
緊張が緩み、強張らせていた身体の力が、
一気に抜けた気がした。
最初に俺を見たあいつは、何を考えていたのか?
雪の額に触れたが、ゆっくりと目を閉じてゆき、
また不安になって名を呼んでみる。
再び、目を開けたが、いつまでも何も言わずに、
ぼんやりと自分をみてるだけの彼女に尋常ではないものを感じて。
ようやく聞くことの出来た言葉をすぐに理解する事は出来なかった。
『あの…あなたは、どなたですか?』
―――別の大切なものを失ったのだ。
それもこれも普段の行いが悪い賜物か、と自嘲の笑みが斎藤の唇に
浮かんだが、それはすぐに消える。
高荷恵が来て、診断していたのを脇で見ていたが、
どうやら自分と雪が出会ってからの…自分との記憶だけが、
すっぽりと抜けてしまったのが腹立たしい。
それをまぎらわせようと動揺している気持ちを静める為、
庭の方に目を向けていたが…。
景色など目に入らなかった。
そんな時、トリ頭が口にした言葉――
忌々しい事に、それは当たっていた。
この先、自分だけでなく雪を巻き込む事件が全くないとは、
言い切れない。
全く違う環境の中にいれば、危険が及ぶことなく、
平安に暮らせるだろう…
一人だけの…雪と出会う前の生活にまた戻るだけだ。
不意に、雪の方を向いた時、
彼女も自分を見つめていた事に気づいた。
慌てて、顔をそらしてしまったが。
忘れてしまい、しかし周りは情報を与えてくれる
男との生活の記憶を思い出そうと、
必死になっていたのかもしれない。
それっきり見向きもしなくなったので、関心ではなく、
いつまでたっても、話に混ざってこない自分が、
ただ珍しかっただけか――
溜息を吐き、枕を正す。
夕餉の時は、最悪だった。
自分の事を一切覚えていない雪に、半ば八つ当たりの態度で接し、
妙におどおどしている態度にも、更に苛立ちは増し、
荒い口調で、あいつに問いただした事に。
共に寝なくてはならないのか?と尋ねられた時は、
本当に記憶を失ったのだと、実感させられた。
額に手を押し当て眠りにつこうとしたが、
簡単には訪れず、投げやりな溜息を吐くと、
斎藤は身体を起こした。
乱れた前髪を持ち上げ、頭を垂れた状態で目を閉じる。
その時だった。
廊下を歩いてきた足音が自分の部屋の前で止まった。
斎藤は目を開けて、襖へと面を上げる。
床に就こうとした雪だったが、
斎藤の部屋の前で足を止め、長い間、閉ざされた襖を眺めたままでいた。
目を伏せて、せめぎあっている自分の気持ちと向き合ってみる。
どうしてあの人の事がとても気になってしまうのだろう。
だが、相手を目の前にして、何を言い出したらよいのか…
不安になってくる。
結局、記憶が戻った後でもいいだろう、と後回しにする事にした。
遅い時間だ…寝てるかもしれないし…
立ち去ろうとした時、襖が開いたので雪は驚く。
「何の用だ?」
「…別に」
「人の部屋の前で、いつまでもうろついている気配があったんじゃ、
気になって眠れない。早く、用件を言え」
「本当に、何でもないんです。お休みなさい」
踵を返し、雪が自分の部屋に行こうとした時、
自分の腕を強い力で掴んだ斎藤の手によって阻まれた。
「何をするんですか?離してください」
腕を振りほどこうとすると、ますます腕に力が籠もる。
「それとも、照れて言えないか?」
「何を…」
雪の耳元で、低まった声で囁く。
「一緒に寝て欲しい…と」
「違います!!とにかく離してくださいっ」
もがこうとした刹那、広い胸に抱き寄せられた雪の動きは、
いとも簡単に封じ込められてしまう。
「鼓動が早いな。少しは俺の事を思い出したか?」
腕の中で雪は頭を振った。
「じゃあ、こうすれば思い出すか?」
ふいに斎藤が身を屈めた途端、首筋に強い痛みが走り、
雪は驚いて、口から僅かな声が漏れた。
「こんな…力づくなんて、嫌です」
それでも拒む雪に、斎藤は険しい声を出した。
「覚えてなくとも名すら、呼べないのか?」
「あなたの名前を呼べるのは記憶を取り戻した時だからです!!」
「…いつ決めた?」
「記憶を失くした時から――言える状況じゃなかったし。
あなたは…意地悪です」
一番気になっているこの人の事だけが、どうしても思い出す事が出来ない。
歯がゆい思いと、緊張と、疲労とが、いっぺんに来て、
堰を切ったように涙が溢れ出す。
頬に両手を当て泣き出してしまった雪に
斎藤は自己嫌悪混じりの吐息を吐くと、
抱き寄せて、優しく背中を叩いた。
「泣くな。お前は今、迷子の状態なんだな。
俺の事に関しては、どう接して扱って良いか、
全く分からない――」
「…子供ですか?」
涙に濡れている顔を上げて、雪が尋ねると苦笑し、
否定する。
「いや、だから困っている」
意味が分からないという表情になった雪を、
再び胸に抱き寄せ、呟く。
「お前は、とてつもなく残酷な事をしているんだぞ。
自覚は、ないだろうがな…」
こっちが泣きたいくらいだ――と斎藤は思った。
「いつまでも、こんな所に立っていると、いい加減、風邪をひくな。
もう、寝ろ」
解かれた腕に寂しさを覚えるのは
記憶が残っている証なんだろうか?
雪は何も言わずに自分の部屋に戻り、
そのまま布団に入る。
まんじりともしない思いを抱えて、
長い間、斎藤と自分の部屋を隔てた襖を見ていた。
翌朝、朝食を終えた後、仕事に出掛ける直前に
斎藤が雪に伝えた言葉は思いがけないものだった。
「しばらく神谷道場に厄介になれ」
「!?」
靴を履きながら、淡々とした口調で述べる斎藤に、
雪は、「どうしてですか?」と尋ねるしかなかった。
「離れて様子を見るのも悪くないだろう」
「で、でも…いろいろ不都合な事が出て来ると思います。
ご飯の用意とか、洗濯とか…」
「身の回りの世話は、人を雇うなりして何とかなる」
背を向けたままで、こちらを見ようともしない斎藤に雪は、
どうしてこんなに悲しい気持ちになるのだろうと思いながら、
言った。
「―――あなたは、私がいなくなっても平気なんですか?」
自分は、この人にとってそれだけの存在なのか…
自分がいなくても、この人は、やってゆけるのだと、
言いたかったのだろうが、雪にとっては、
ひどく打ちのめされた言葉だった。
一瞬、斎藤の背が強張ったが、雪の問いには答えず、
「行って来る」と一言、告げただけだった。
「誰が平気なんだ、阿呆」
通りを歩きながら、苦い表情で呟く。
「斎藤」
名を呼ばれるまで、
相手の気配にまるで気づかなかった己の油断に内心舌打ちする。
これが十年前だったら、背後から斬られていたか、
背中に傷を受けたとして、切腹ものだ。
斎藤は振り返った。
干し終えて、風に揺られる洗濯物をぼんやりと
雪は見ていた。
そのうち視界が、ぼやけてきて涙が出ていたことに
気づいた。
「やだ、泣いてばかりで…」
手の甲で、ごしごしと頬を拭っていた時、
庭先で鳴き声がしたので顔を上げれば、
白い子猫が、危なっかしい足取りで寄ってきた。
見るからにお腹が空いている様子だ。
壊れ物を扱うように、ゆっくり抱き上げると家の中に入れてくれた雪を
大きな瞳で不思議そうに見ていたが、
やがて手に頬ずりして甘えてくる子猫の様子に、
笑みが零れる。
残っていた冷やご飯の上に鰹節をかけてやると、
むしゃぶるように子猫は食べ始めた。
「迷子になっちゃったのね。
早くお母さんを見つけなくちゃ。
一緒にいられるのなら、幸せだもの…」
自分で呟いた言葉に雪は、はっとする。
一緒にいられるのなら―――
子猫の鳴き声で我に返り、そっと頭を撫でてやりながら、
雪は子猫を抱き上げて小さな頭に自分の頬を寄せた。
隣の人に聞いてみたところ、
近所で飼っている猫が先日産んだ子猫じゃないか、と
思いの外、すぐ分かり、届けに行った。
抱いていた子猫を下に降ろしてやると、
急ぎ足で母猫の方に駆けて行くのを見送ったのだった。
「さてと、」
夕食の買い物をしようと雪が道を引き返そうとしたが、
「お雪ちゃん、大変よっ!!」
薫が血相を変えて走って来たので、思わず足を止めてしまった。
「薫さん、どうかしたんですか?」
雪は尋ねたが、
「とにかく一緒に来て頂戴っ!!」
雪の手を引っぱりながら、急いで道場へ来いと薫は急かす。
胸騒ぎを覚えながら雪は駆け出していた。
「何の真似だ?人斬り稼業は自分で辞めたと、
ほざいていなかったか?」
斎藤は目の前にいる十字傷の男に皮肉も露わに尋ねる。
「決闘ではないでござる。あくまで、試合でござるよ」
微笑みながら答える剣心。
「試合だと?
フン、だったら何故竹刀ではなく真剣を使う必要がある?
だが幕末からの決着に片を付けるなら、真剣でも構わんがな…。
だが、やるからには、こちらも本気でゆく」
刀を抜いたと同時に眼光も鋭さを増し、周囲に殺気が漂う。
「拙者も手加減は、しないでござる」
逆刃刀の鞘を左手に持ち、抜刀の体勢に入った剣心は、
ゆっくりと間合いをとった。
雪と薫が到着した時には、すでに激しい刃の打ち合う音が、
道場の外にも響いて来た。
「うそっ!?もう始まってるの?」
顔が強張った薫より先に雪が道場へと駆け込んだ。
二人の戦っている姿を目にするや、全身が凍りつく。
更に、真剣だと分かるやいなや、慌てて止めようと二人の傍へ寄ろうとしたが、
強い力で肩を掴まれ止められてしまった。
左之助だった。
「左之助さんっ、早く止めて下さいっ!!
このままじゃ、二人とも」
「間合いの結界だ」
二人に視線を向けたままで、左之助は呟いた。
「え?」
「誰も踏み込めやしねぇ。
以前、やった時もすごかったぜ。だが、今回は決闘じゃなくて『試合』だ。
まぁ、あの二人にしてみりゃ、大して変わりはねぇか…」
「そんな…」
「今日はいつになく動きが速いな、抜刀斎」
「大事な役割を持っているからでござるよ」
「何?」
斎藤の視界に道場の入口が入った時、
青ざめて佇ずむ雪の姿があった。
雪っ!?
一瞬の隙が出来る。
それに乗じて、剣心が刀を振り下ろそうとした直前―――
「斎藤さんっ!!」
道場に響き渡ったのは、雪の声であった。
名を呼んだ後、意識が遠くなってゆく。
一方、ぴたりと動きを止めたままの剣心は、
ゆっくりと微笑み、逆刃刀を元通り、おさめた。
斎藤は立ち上がり、失神している雪の元へと
足を運ぶ。
「どけ」
支えていた左之助に冷たい一瞥を与え、彼女を抱き上げる。
「何でぇ、その言い方はよ。
大事なお姫さまを預かってやってたんだぜ」
そう文句を言いながらも、思わず笑いがこみ上げてきてしまう。
「―――最初から、こういう筋書きだったのか?」
「そうでござる。
恵殿は、『心に強い衝撃』が起これば、記憶は戻るかもしれぬと
いう言葉からな。
いちかばちかの賭でござった。
でも、もう拙者から『試合』を申し込む事はないと思って欲しい。
今回は、特別でござるよ。
それに目を開けても、まだ完全に記憶が戻っているとは限らぬし…」
説明する剣心に、
不本意ながらも、借りを作ってしまった斎藤は面白くない。
「フン、余計な事を…。
だが、こいつの記憶は戻った」
「何故、そう言い切れるのでござるか?」
腕の中の雪を眺めて、斎藤は言った。
「名を――呼んだからだ」
「お主の?」
「あれ?斎藤さん、どうしたんですか?」
覚醒した雪が一番最初に斎藤に聞いた言葉だった。
「―――覚えていないのか?」
「何をです?」
「……………」
煙草を取り出し、火を点した。
こうして吸うのも随分、久しぶりの気がする。
すっかり翻弄させられた、と斎藤は庭先を眺めた。
「嘘ですよ。
ちゃあんと、頭を打って、たんこぶを作った事から、
気を失うまで覚えてます。
まだ、ちょっと痛むし…」
くすくす笑いながら、額に手を当てる雪に、
「お前―――」
斎藤は唖然となり、やがて溜息を吐いて、首を振った。
「全部、覚えています。
何だか…とても長い夢を見ていた気分でした。
大切なものを失くして、また取り戻して――。
やっと本来の居場所に帰ってこれた感じなんです」
煙草を吸い終え、灰皿で揉み消すと雪が寝ている傍らに
斎藤も横になり、肘を立て手のひらで頭を支える体勢になる。
しばらく彼女を見つめていたが、
やがて嵌めていた白手袋を口で銜えて外すと、
彼女の首筋につけた赤い跡を素手で触れながら、
低い声で尋ねた。
「その本来の居場所とは、何処なんだ?」
頬を染めた雪は、斎藤の首に手を回して、
そっと囁いた。
「あなたがいる場所です」