目の前で繰り返し頭を下げている女性を相手に
斎藤の秘書である彼女は、ほとほと困っている。

「お願いします。明日一日だけでいいんです。
どうか斎藤部長に頼んで下さい!!」

何度も頭を下げているこの女性は、
結城と名乗った。

「…あのね、結城さん。
そういう事は、私じゃなくて部長に直接言った方が…」

と彼女も繰り返し忠告しているのだが、

「いいえっ!!」

結城は下げていた頭を上げ、
きっ、と彼女を見た。

「斎藤部長が私なんか相手にしてくれないのは
充分、分かっています。聞く耳をもたない事も…。
でも、いつも一緒にお仕事されているあなたのお口添えがあるなら、
少しぐらい耳を傾けてくださると思うんです。
ダメ元で、いいんです。お願いします!!」

そうして結城は、またしても頭を下げる。

結城が所属する部署とは離れており、
顔は見知っていたけれど、これまでほとんど話す機会などなかったのだ。
しかし、今日突然に結城が彼女のところに、
やって来て、頼み事を言ってくるとは
思いもよらない事だった。

結城が話すには、
実家の母親の病の面倒を見なければならない為に、
今月中には社を退職しなければならないという。
以前から密かに斎藤を慕っていたそうで、
最後の思い出に一日だけ、つきあってもらいたいと
秘書の彼女に頼んで来たというのが、事の仔細であった。

(困っちゃったなぁ…)

明日は休日…明日を逃せば自分に時間は、
なくなってしまうのだ、と結城は告げた。

(はっきり断ってしまえば良かったのかしら?)

思い人が同じなうえに、女性としての気持ちも分かるので、
彼女には、それが出来ない事は、よく分かっていた。

 

「――そんなよく知りもしない女に、
俺は一日つきあわなければならんのか?」

彼女が話し終えた後も、
椅子に座り煙草を吸いながら、
しばらく沈黙が続けていた斎藤が、
ようやく口を開いた時の言葉だった。

終業間際に、それとなく結城に頼まれた件を
彼女は話してみたのだが、
どうやら機嫌を損ねてしまったらしい。
話を進めていくうちに、
次第に表情が強張ってゆき、
話し終えた時の斎藤は、
いかにも不機嫌そうな表情になっていた。

彼女は頭の中で、いろいろ言葉を探し出しながら、

「結城さんは今月で退職されるそうなので、
斎藤部長と明日一日だけ、ご一緒にと…」

精一杯の笑顔でもう一度説明する彼女に、

「阿呆が…」

溜息混じりの口調で斎藤は言った。

「え?」

「そんなくだらん頼まれ事、引き受けるとはな…嫌なら、さっさと断れ」

「くだらないって…だって、結城さんが会社にいられるのは
残りわずかなんですよ。
あんなに頭下げて頼んで…可哀想じゃないですか」

「可哀想?」

灰皿で煙草を揉み消すと、立ち上がる。

「フン、下手な情など、かけるな。
そんな事をすれば付け込まれ、利用されるだけだぞ。
だが、そんな様子では、
これから先も分かったもんじゃないな」

冷たい眼差しと物言いに、
彼女は強い口調で反論していた。

「いけませんか?
あんなに必死になって頼んで来る結城さんを
冷たく拒むなんて私には出来なかったんです!!
部長みたいに冷静で非情で、
どんな事でも怖れないような人には分からないでしょうね」

「何だと?」

斎藤は眼をすうと細め、じっと彼女を見つめている。

「…でも…どうしても…部長のご都合が悪いなら…
結城さんには…」

「分かった」

思いがけない一言だった。
目を瞠る彼女を上司は無表情に眺める。

「聞こえた筈だ、行ってやる。
…そんなに驚く事か?」

「い、いえ…」

絶対に断るだろうと思っていたのに…

そんな彼女の考えを見通してか、

「気が変わった…それだけだ」

そう言うと、
椅子に掛けてあった上着を無造作に羽織りながら、
明日の時間と場所を彼女に告げ、
斎藤は部屋から出て行った。

待っていた結城のところへ行き、明日の待ち合わせ場所と時刻を
彼女が伝えると結城は、泣きださんばかりの表情になって、
何度も深い感謝の言葉を繰り返した。

 

 

どうして部長は、急に承諾したんだろう?

――何、やってんだろう?私

結城を助けてあげたい気持ちは確かに、ある。
だが内心、嫉妬で胸が痛まないというのは嘘だった。

喫茶室で窓から見える夜景の高層ビルを
虚ろに眺めながら、
彼女が両手でコーヒーカップを包み、
少しずつコーヒーを飲んでいると――

「どうしたんだ?ぼんやりして」

ふいに低い声がして、
面を上げた彼女が見たのは、
椅子を引き、向かいの席に座る土方の姿だった。

「副社長っ!?…あの、お仕事は…?」

「ようやく長かった会議から解放されて、
一休みしようと、ここに来てみれば、あんたがいたって寸法さ。
あぁ、気を遣う必要はねぇ。
そのまま、ここにいな」

自分がいたのでは、ゆっくり休憩出来ないだろうと、
彼女が立ち上がりかけたのを察し、
土方が止めた。

ためらっていたものの、
結局もう一度、彼女は席に腰を下ろした。

土方は頷き、
背広のポケットから煙草を取り出して口に銜えると
高価そうなライターで、火を点ける。

一口吸った後、
唐突に土方が、くっくっと笑い出したので、
彼女は怪訝そうに彼を見つめた。

「あんたは本当に分かりやすいな」

「何が…でしょうか?」

「悩んでる感情が、そのまんま顔に出ちまっているんだよ。
嘘なんざ吐けない性分だろう?
どこかの無表情で無愛想な上司に
爪の垢でも煎じて飲ませてやるこった」

どうせまた、そのどこかの上司がらみだろうがよ…
と、目にからかいの色を浮かべながら
土方は煙草を口元にもってゆく。

「そんな事ありません」

「嘘は吐けねぇ性分だって、今、言ったばかりだぜ?」

「……そんなくだらない事で…って、
副社長は笑われると思います。
それに、いつもいつもご迷惑ばかりかけて申し訳ないです」

「笑わねぇよ…。
それにあんたから、かけられる迷惑なら大歓迎だぜ」

本気なのか、冗談なのか…。
さらりと言ってのける土方に、
どうしても戸惑ってしまう彼女である。
普段は鬼の副社長と言われるこの人が、
女性に、もてる理由を彼女は再認識した。

だが、

「別にあんたが黙っていようと情報網は、
いくらでもあるしな」

調べりゃすぐ分かる
と、人の悪そうな笑みで土方は言う。

大企業の狡猾な副社長に、
普通の秘書では、到底叶わないのだと、
彼女は内心、溜息を吐きつつ観念した。