「愛してる」

低い声が、そう囁いた。
抱きしめられている彼女は、
耳を疑ったが、
ますます強くなるその腕の力に安堵し、
嬉しくなって、ゆっくりと彼の背中に手を回す。

「部長――」

私もです、と言おうとしたところで、
何故か視界が変わっていた。
いつも見ている風景だ。
そうだ、自分の部屋の天井で、
そうしてようやく気づく。

「夢…だったのね」

上半身を起こしたが、ぽすんと掛け布団に頭を突っ込むと、
彼女は呟いた。

テレビをつけっぱなしにし、
湯気たつコーヒーをカップに注ぎ終え、
こんがり焼いた厚めのトーストにバターをたっぷり塗ると一口、
思いっきり囓る。

「大体、あの部長が
『愛してる』なんて言う訳ないじゃないの…」

私の方は、「好きです」なんて言っちゃったけど…
それっきり返事は返ってこなかったし。

…もしかして、欲求不満なのかしら?
夢は抑制されたものを解放するとかって…
聞いたことがある。

何ともいえない気分になりながら、
またトーストを囓った時、
テレビから女性のアナウンサーが、
さわやかに挨拶してきた。

「おはようございます。4月1日、朝8時。
今日のニュースをお伝えします」

夢のせいで緊張しながら、出社した彼女だったが、
上司が不在だったので、ほっとした。
朝から得意先に行くと言われていた事を
彼女は思い出す。

一日の仕事のスケジュールを頭に叩き込んでから、
机に座り、パソコンでデータの打ち込みを始めたのだが、
今朝の夢が頭をよぎり、
どうにも仕事に集中出来ないでいた。

いけない、いけない、と首を振って、
また仕事に入るのだが、
気づけば、また夢の事を思い出している。

やけにリアルだったというか…
抱きしめられた腕といい、その感触といい。

第一、あの声が曲者なのだ。

「おい」

そう、こんな声でって……え?

「ぶ、部長っ!?」

思わず椅子から、立ち上がってしまった彼女を訝しげに上司は
見下した。

「心ここにあらずだな。
先日、伝えておいた資料は揃えておいたか?」

「は、はいっ!!ちゃんと、ここに」

いつの間に帰って来たんだろう?
気配もなしに、突然いるから、
驚いたし、当の本人の事を考えていたので、
本当に焦ってしまう。

彼女は、あたふたしながら、
仕舞っておいた資料を引き出しから取り出すと、
上司に手渡す。

「こちらです。あの、お帰りが早かったんですね…」

「早く終わらせた。
鬼の居ぬ間に、一人きりで伸び伸びと
仕事してた方が良かっただろうがな。
喉が渇いた。コーヒーを持ってきてくれ」

そう言うと、自分の部屋へ行ってしまった上司に
彼女は溜息を吐く。

間違っても夢で言ってくれた言葉なんて、
言わないわね…

彼女は言われた通り、コーヒーを作り、
トレイに載せて持っていった時、
上司は上着を脱ぎ、
煙草を吸いながら資料を見ているところだった。

コーヒーを置いて、彼女は上司の言葉を待つ間、
考えていた。

ただの夢に、何をこだわっているんだろう。
いっそいつもみたいに憎まれ口を叩かれて、
からかわれる夢だったら、
ありもしない期待などせずに、いつも通り過ごせたのに。

はっ、と気づいた時には、
琥珀の瞳が間近すぎる程に近づいていて、
驚く間もなく、
唇が下りてきて、合わされた時、
彼女は息を飲んだ。

やがてシャツに顔を埋めて、
すっかり熱を持った頬が触れている間、
心地良さを感じていた。

「愛している」

「!?」

聞き間違いではない。
まさか…本当に正夢になったのかしら?
でも…

「……あ」

部屋に掛けられていたカレンダーを見た途端、
彼女は上司から、すばやく離れた。

「どうした?」

「部長、また、からかっているんですね。
今日は何の日だか私が知らないと思って…。
エイプリル・フールですよ。
そう簡単には、だまされませんからねっ!!」

仕事に戻りますっ!!

そう言うと、
彼女は部屋から出てゆこうした。
だがドアを開けるとすぐに、
くるりと振り返り、
舌を出してから去って行った。

「……あの阿呆、また一人で勘違いしてたな…」

額に手をあてながら、斎藤は溜息を吐いたが、
やがて苦笑へと変わってゆく。

「今日が、そんな日なんて忘れてたぞ。
こっちは本気だったんだがな」

まぁ、またからかう機会が出来た事だし…

自らも人が悪いと思いつつ、
窓から彼女を楽しげに眺めながら策を考える斎藤だった。


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□あとがき□

エイプリル・フール当日に考えた駄文です。
間に合うかな〜?と焦っていたのですが、
何とか大丈夫でした。
折角の記念日(?)ですから、
「ありえねぇ〜」という駄文を書いてしまおうっ!!
(いつも書いてるのも「ありえねぇ〜」駄文ですけどね^^;)
それにしても「彼女さん」
次に部長から愛のお言葉を言ってもらうのは、
いつの事になるんでしょうか?

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