星合い

 

自分のデスクに置いてある卓上カレンダーを
手に取って眺めながら、
彼女は溜息を吐く。
何度も日付を確認し、静かに元の場所に戻した。

今日は七月七日
織姫は彦星に一年に一度だけ逢える日だけれど…。

上司の部屋に顔を向けても、当の主はいる筈もなく…
出張の為、不在なのである。

今日でもう五日目…せめて仕事の用件とかで、
連絡くらいしてくれたっていいのに…

電話が鳴るたびに、期待して受話器を取っても、
大抵は社の人間か、取引先の客からで、
何度も期待が外れ、落ち込むばかりである。
バッグから携帯を取り出して、
何度も確認してみるのだが、着信すらない。

部長の携帯に…掛けてみようか?

そう考えるのも、もう何度目だろう。

仕事で分からない事があって…とか言い訳を作れば…

しかし実際、仕事の上で、それほど困った事など起きていなかった。
いざ電話を掛ける段階になってみると、
出張の前日の出来事を思い出し、
自分から連絡するのを躊躇って、今日まで来たのだ。

大体、部長が一人で勝手に誤解するから…。

出張の前日…
彼女が資料室から厚いファイルを何冊も両手に抱えて、
廊下を歩いていた時、
気の毒に思った男性社員が親切心からか荷物を全て
引き受けてくれたのである。

部屋まで運んでくれ、彼女が笑顔で、
その社員に礼を告げている時分に、
上司が帰って来た。
その社員は冷たい斎藤の視線を浴びるや、
どこか慌てたように、早々と引き上げて行った。

「何の見返りも求められなかったのか?」

「見返り?」

斎藤にコーヒーを持って行った時、尋ねてきた。
何の事だろう?と彼女が首を傾げると、

「食事にでも誘われなかったか?と聞いている」

「どなたに…ですか?」

「さっき部屋にいた男に、だ」

そんな訳はない、
名前すら全く知らないのである。
向こうだって、自分の事を知っているかどうか…。

「帰る間際、何か言いたげだったぞ。
俺が戻って来なかったら、誘われていただろうな。
もしそうなったら、行く気か?」

例え誘われたとしても、
彼女に行く気はなかったが…上司の邪推ともとれる言葉に、
頭に来たせいもあり、否定もせず、
卓上にコーヒーカップを置きながら、さらりと答えることにした。

「…そうですね…あんなに重いファイルを持ってくれたんだから、
御礼のうちと思って…行ってしまうかもしれません」

「ほう…うちの秘書は随分と義理堅いんだな。
そういえば副社長も、そのうち食事にでも誘いたい…
そんな事を言っていたぞ。
そっちの方は、どうする?」

どうしてここで、副社長が出て来るんだろう?

「副社長には、いろいろお世話になってますし、
その時は、喜んでご一緒させていただきますから!!」

「いろいろ?」

こんな事、言ってしまっていいのかしら…?
しかも相手は、ただならぬ自分の上司だ。
一層低い声になったのに、内心ひやりとする彼女だが、
こうなったら売り言葉に買い言葉である。

突如、上司が椅子から立ち上がり、
その反動で、コーヒーカップが揺れる。
上半身を屈めて、冷ややかに見下ろす斎藤を
彼女は精一杯の虚勢を張り、見上げた。

「本気で行く気か?」

「も、勿論です…失礼します」

自分の机の内線が鳴ったので、
逃げるようにして彼女は部屋を出て来た。
その後、すぐに多忙な上司は外出し、そのまま真っ直ぐ帰宅してしまい、
…会えず終いとなったのである。

全くもう、本当に強情なんだから…。

彼女は勢い良く携帯を閉め、バッグに仕舞うと、残っていた仕事を片付ける為、
パソコンの電源を入れた。

 

スーツの内ポケットから携帯を取り出し、画面を見ても、
着信の表示がないのは、変わらない。

連絡をよこす気もないか…

「ここ数日、秘書からの連絡がないからって、
うっとおしいその仏頂面に磨きをかけてるんじゃねぇよ。
自分から掛けりゃいいだけじゃねぇか」

通路を挟んで反対側の席では、
土方が読んでいる新聞をめくりながら、
まるで独り言のように呟く。
今回の出張は、副社長である土方との同行であった。
初日から今日で五日も始終一緒なので、
斎藤にとっては仕事といえど楽しくない状況である。

こちらから連絡をすればいいと言う
土方の言う通りなのが、癪に触る。

第一、余計な世話というものだ…

何も答えない斎藤に対し、
フン、と土方は鼻で嗤った。

「今回は随分と荒れてる仕事っぷりだったな。
相手方も、斎藤部長様には戦々恐々とした応対だったしよ」

「だが、仕事は片付けた。
文句を言われる筋はないと思いますが…」

「へぇ?
俺には、余裕がないように見えたぜ。
察するに、秘書と出張前に、また一悶着あったみてぇだな。
それほど影響を与えるなんざ、大したもんだ。
つくづく、お前なんかにゃ勿体ねぇ」

これだから、この男は侮れない…。

斎藤は眉をしかめ、腕組みをすると、シートに身を預け、
視線を車窓に向ける。

「今日は七夕だったんだな…」

今、日付に気づいたように、土方が言った。

「それがどうしました?」

「…社には戻らず、そのまま帰んな」

訝しげに斎藤が土方を見ても、
新聞の記事に視線を向けたままだ。

「『鵲の橋(かささぎのはし)』って、言うんだとよ。
五日逢えずの織姫さまは、寂しがってるだろうぜ」

確か、男女の仲を取り持つ意味…だったと思う。
しかし土方がこう言った時は…

「借りは倍にして返せ」

「存じてますよ…それに、いつもそうしている」

 

今日は帰って来る…と思っていたのに。
残業時間ぎりぎりまで彼女は社内で待っていたが、
上司の姿を見ることはなかった。

織姫と彦星は一年に一度しか逢えないのに、
自分はたった五日で、
もう逢いたくて堪らなくなっているなんて…。

自分のアパートの部屋の前に、佇んでいる人影に気づいた。
俄に驚いたものの、
馴染んでいる煙草の煙の薫りが伝わって来て、

「…部長?」

「こんな時間まで何をしてた?」

いきなり攻める口調で上司は聞いて来た。

五日も悩んでいたのに、
ようやく会えたと思ったら…。

「何をしていたと思います?」

斎藤の脇を通り過ぎ、
バッグから部屋の鍵を取り出して、ドアノブにそれを差し込み、
彼女はドアを開けながら、そっけなく答えた。

「何だと?」

「もう遅い時間ですし、
そういう用件にはお答え出来かねます。これで失礼します」

勢いよくドアを閉めようとしたが、強い力で引かれ、
上司は既に中に入ってしまった。

「部長っ!?」

「俺に喧嘩を吹っ掛ける度胸があるのは、
褒めてやる。
だが、正面から堂々と挑んで来たらどうだ?
挑発する言葉だけ投げて、いつも逃げられては、
正確に知りたい事も分からず、こっちも苛立ちが募る一方だからな」

斎藤は吐息を一つ吐くと、ネクタイを緩めた。

「…部長、お疲れなんですか?」

「あの副社長と五日も一緒にいれば誰だって疲れる」

心配気な表情になる彼女の問いに、
そっけなく答え、斎藤は尋ねる。

「一緒だったのか?」

「え?」

「荷物を持ってくれた奴と食事したんで、
こんなに遅くなったか?」

どうしてこの人は…
あらぬ事を疑われるのは、もう沢山だ。

「そんな訳ないじゃないですかっ!!
誘われたら、私が誰とでも一緒について行くと勝手に誤解して…
だ、大体、どうして私の部屋の前にいるんですか?
五日も連絡ないし…ああ、もう何を言っているんだか…」

肩に提げていたバッグを乱暴に床に下ろし、
落ち着こうと目を閉じたが…

「泣くな」

「な、泣いてませんよっ!!」

もう、何ですぐに涙が出て来るんだろう…
悔しげに彼女が頬を擦りつつ、

「もっと私の事を…信用してくれたって…。
いくら私が部長の事を想っていても…
これじゃ立つ瀬がない…。
私が、そ、そんな女だと思われているから、
そういう言い方するんじゃないですか…本当にもう、
もう帰ってくださいっ」

「おい、五日ぶりに会った上司を追い出すのか?」

「せ、折角会えても、
変な勘ぐりばかりする人に対処出来るほど、
私は出来ていませんから!!」

悪かった…と、小さく漏らした上司の言葉は、
彼女の耳に届いた。

「嫉妬から…要らぬ詮索をして、出て来る言葉だと、
全く考えないのか?
俺の問いに何故、すぐに否定しなかった?」

確かにああいう答え方をして、誤解させた自分に
非がない訳ではないけれど…

「そ、それは…そ、そうですけど…でも、
あの人や副社長に嫉妬するなんて…
お、おかしいですよ」

また込み上げてくる涙をどうする事も出来ず、
彼女は、啜り上げのを見て、
斎藤は内心、吐息を吐く。
これまで泣いている女を見ても、煩わしいと思い、
冷淡な態度を取ってきたというのに、
この女の何が、こうも動揺させるというのか…。

「おかしいか…そうかもしれんな。
今まで考えもせず、
他人のを見ていて、くだらないと思っていた事を
している自分ってのは戸惑うぞ。
そうさせた原因の影響力ってのは、
恐れを伴うほどに大きすぎる。
時々、どう扱っていいのか分からなくなる。
…とにかく泣き止め」

どういう意味なんだろう?

彼女は考える間もなく、
引き寄せられ、
しばらく斎藤の肩に頭を預けていた。

ようやく彼女は、ほっと体の力を抜いて、
俯きながら、手の甲で涙を拭いた。

「………落ち着いたか?」

「は、はい…泣いたら、何だかすっきりしました」

しがみついていた自分の状況に気づき、
赤くなって彼女は上司を見上げたが、
一向に離れようとする気配がない。

「私…他の人と食事に行ったりしませんから」

少し拗ねた口調で言う彼女に、
斎藤は、
ああ、と頷く。

「…あ、そうだ。
言ってませんでしたよね」

「何をだ?」

まだ言い足りない事でもあるのか?
注意深くなる斎藤に、彼女は照れたように微笑む。

「お帰りなさい…って」

今、泣いてたと思ったら、すぐに笑う。
これだから……拍子抜けするほどに、
こっちは翻弄させられる。

「――――敵わんな……全く」

 

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あとがき

七夕だから何か書きたいなぁ…と思って書いてみたんですが、
何これ?全然「七夕」じゃないです(汗)
あんまし、らぶらぶでもないですしね(致命的じゃん)
難しいです…らぶらぶってのは。
土方さんが出て来る所が一番書きやすかったり!?
斎藤部長の嫉妬する様…想像するのは楽しいんですけど、
こ、怖いですよ!!(いつも思いますが)
秘書さん、相変わらず天然ですなぁ…。
もうちょっと色気欲しいんだよなぁ…と書けもしない事を
考えてしまいます。
タイトルは「星合の空=七夕の夜の空」からです。
(ひねりもないタイトルで…^^;)


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