■ カフス釦 ■

 

 

今日こそ…今日こそは、辞めてやるんだからっ!!

あの人の秘書となって、一週間と過ぎてない。
自分では、大人だし、ある程度の常識を持って、
我慢強く、真面目に、一日でも早く仕事を覚えようと
頑張ってきたつもりだ。

しかし、我慢も限界だった。
ほんの数分前の出来事だったのだが。

「おい…。おいっ!!」

「は、はいっ!!あ、部長、お呼びでしたか?」

顧客名簿を覚えようとデータに没頭していたので、
大きな怒鳴り声で、ようやく入り口に立っている上司に
気がつく。

「いたら、さっさと返事をしろ。
……頼んでおいた書類は出来たのか?」

「え……あ、はい。出来ております」

机の上に置いておいた書類を上司へと手渡す。
受け取り、すばやくページを開きながら、目を通していたが、
顔を上げ、鋭い目で秘書を見、
机の上に投げ返してきた。

「やり直せ」

「……は?」

「15ページ、16ページ…グラフ画像が違う。
金額の0が足りない。ついでに、説明文も間違いだらけ。
最悪だな」

「えっ!?あ…本当だ。
でも、グラフ画像は、これで良いと部長が仰って…」

「口答えする気か?さっさと直せ。
ったく、大した秘書だな」

上司の部屋へと続く扉が閉まると、
ぎゅうっと、彼女は自分の唇を噛みしめた。

悔しい〜!!
何よ、何なのよっ!?
何で、あそこまで言われなくちゃならない訳?

こうなったら、
『大した秘書』をご自分で、お探しくださいと、
きっぱり言って、辞めてやろう。
さぞかし、さっぱりして、せいせいするわっ!!

上司の部屋に行く前に、
コップ一杯の水を、勢いよく飲んで、一息ついた後、
戦闘態勢は万全とばかりに、
敵地のドアをノックした。
…流石に、ノックもせずに入る勇気がなかったのが、
情けなかったけれど。

「失礼しますっ!!」

勢いよすぎるほど、ドアを開けた時、
机の上で仕事した上司が自分を鋭く見上げる
…という状況を予測していたが…机に上司の姿はなかった。

「あれ?」

「何だ?」

「ぶ、部長っ!?」

当の本人は、ドアの脇に立っていた。
よくよく見れば、先程まで着ていた上着を脱ぎ、シャツ姿で、
苛立ちそうに、手首を見ながら、何事か、やっている最中だった。

「……カフスボタンですか?」

「普段は面倒で、やらんが…今日は
会議があるんでな」

不慣れなせいか、なかなか苦戦しているらしい…。

「……よろしければ、やりましょうか?
部長は、お時間がお忙しい方ですから」

「嫌味か?」

すっ、と腕を顔の前に出され、
細いと思っていた手首が予想外に、
逞しく見える事に、
一瞬ためらったものの、
彼女は、カフスボタンを留める作業を始めた。

「はい、出来ました。左手も出して下さい」

言われるままに出された、もう一方のカフスボタンも留める。
肌に触れないよう、注意しながら。

「終わりました」

気づけば、思っていた以上に上司に接近していたので、
慌てて、彼女は距離を置こうと、
後ろに下がる。

「こういう所は優秀だな。
ネクタイは、曲がっていないか
確かめてくれないのか?」

意味深な低い声に聞こえるんだけど…
それに、ネクタイに触れる為には、
もっと近づかなくちゃいけなくなる。

「曲がってません。
…その、私…失礼します」

斎藤が更に近づこうとした時、運良く内線が入って良かった…と、
自分の席に戻った彼女は安堵した。

……あれ?私…何しに行ったんだっけ?

思いがけない事に、すっかり自分が何しに行こうとしたのか、
失念してしまった。
自業自得の溜息を漏らしながら、彼女は書類を直し始める。

 

数日後…

部長宛に届いた郵便を届けようと、ドアをノックし、
開けた時、またもカフスボタンを留めている上司に
彼女は我が目を疑った。

この前の不器用そうに見えた姿は、どこへやら…

書類を見ながら、
器用に、いとも簡単にカフスボタンを留めている。

ちらりと秘書を見ると、

「今日は、時間がないんでな」

掛けてあった上着を
鮮やかに、はおると、
さっさと彼女の脇を通り、部屋から出て行ってしまった。

はっ、と、その後ろ姿に見とれてしまっていた彼女は、
我に返り、改めて決心する。

「絶対に、早く辞めてやるんだから〜〜〜っ!!」

……しかし、現在も上司の下で秘書を続けている彼女である。