どこまでも暗い、真っ黒な闇があるばかりだ。
泣きながら、小さな足で、
とぼとぼと、ゆっくり歩いている。
お腹も空いて、どうしても心細くて、
早く誰かに見つけてほしくて、
あれは────
頬に、ひんやりとした手の感触。
触れれば、壊れてしまうのではないかと…
そんな風な触れ方だ。
うっすらと目を開けてゆけば、
深い琥珀が自分を見ていて…。
きれいだけど、
どこか哀しそうに見える。
何故なんだろう?
「部長…?」
名を呼ぶと同時に、そのまま身体を抱き起こされ、
きつく抱きしめられると、
ようやく深い安堵が彼女の中で広がった。
「何を泣く?」
髪に顔を埋めているせいか、
些か、くぐもった声が訊ねた。
「…え?」
解かれた腕から身を起こして、彼女が自らの頬に手を
当ててみた。
確かに濡れた跡がある。
それじゃあ…
涙を拭ってくれていたのは、斎藤だったのだ…と、
彼女は思い出した。
「別に、何でもありません。
『そんな事で…』と部長に笑われます」
ふらりと立ち上がり、ほんの少し目眩を感じたが、
すぐに治まる。
ほんの数歩歩いて、
台に置いてある水差しから、コップに水を注ぎ、
飲もうとしたが、
ふいに持っていたコップを取り上げられてしまい、
振り返れば斎藤が立っていた。
「話を逸らすな」
「本当に何でもない事なんです、それ返してください。
お水が飲みたいんですから」
「ほう…。ならば飲ませてやろう」
以前にも、やった事だしな…、と
彼女が後ずさりする前に、すばやく腰を抱き寄せ、
水を含むと、強引に唇を押しつけてきた。
途端、冷たい水が口内に流れ込んでくる。
抗っても男の強い力では、決して適わない。
一度、離れた唇から、ようやく解放されると、
本能的に強く呼吸を繰り返す。
彼女を見据えていた斎藤だったが、
ふと、
どうしようもない…
そんな微笑みが浮かんだ気がした。
彼女は斎藤を仰ぐ。
今度は、ゆっくりと唇が触れてきて、
合わされば、先程よりも更に強い力で塞がれる。
貪欲に唇を欲しているかのように。
いつの間にか、彼女の身は横たわり、
重なる身体から伝わる重さ。
冷たい手が肌を這う性急さに震えながら、
恥じる言葉を小さく囁くが、
柔らかく耳を囓られ、その刺激に
男の背に爪を立て、息を呑む。
剥がされる衣から枷は解かれ、
ただ愛おしいと───
それだけしか考えられなくなり、
自らも求めて、熱に溺れてゆく──
再び目を開けた時、斎藤はすでに起きており、
いつもの彼らしからぬ胸元を崩した格好で、
立て膝で、座っていた。
灰皿には、数本の吸い殻がある。
ぼんやり目を擦りながら身を起こす彼女の様子を
眺めていたが、不意にニヤリと嗤った。
はっ、と自分の状況を思い出し、彼女は脱がされたものを
慌てて身にまとい、斎藤に背を向ける。
うなだれた顔は、みっともないくらい
赤く染まっているだろう。
薄暗い部屋でも分かるほどに…。
呆れたような溜息が漏れるのが
背後から聞こえた。
「共に住むようになって、一月過ぎる頃だ。
いい加減に慣れろ」
「そ、そんな事、言ったって…」
それに、と斎藤は続ける。
「今更、恥ずかしがる仲とも言えんだろう?」
ほんの少し前の事を示唆している言葉に、
彼女は、ますます落ち着きをなくしてしまい、
意味もなく、乱れた薄い掛け布団を畳み直す。
「話す気は、ないか?」
強制する厳しい怒声ではない。
静かな声音だった。
ようやく顔を向けた彼女に、
斎藤は軽く頷き、煙草から取り出すと、
ライターで火を点して、話し出すのを待っている。
「本当に…大した事じゃ…」
「聞いてみなけりゃ分からん。
普通通りに見えて、
実は負担になっているかもしれんからな」
…何を?
彼女は、すぐに反応する。
「いいえ、一緒に暮らしている事は、
負担になってなんかいません」
悪い夢を見た後、安心を与えてくれる人が、
傍らにいてくれる。
一人暮らしでは、それはないのだから…。
身体ごと振り返り、彼女は身を正して、
正座の姿勢になる。
「…ただの夢なんです。
ずっとずっと昔のことで…」
畳みかけの掛け布団を見て、
「小さい頃に…近所の子達と、かくれんぼをして
遊んでいたんです。
始まったのが、夕暮れ時だったものですから…
だんだんと辺りが暗くなっていって。
私が、うまく隠れている間、
一緒に遊んでいた子達は探し出すのに、
飽きて…帰ってしまったんでしょうね」
それは、お前がトロいからだ…と、
一笑されると思い、ちらりと斎藤の方を見たが、
煙草を吸うのを止め、黙って聞いている。
「ついに我慢出来なくなって、隠れているのも忘れて、
一目散で、今度は私が、みんなを探す羽目になっちゃって。
…でも、見つからなくて…
真っ暗な道をだんだんと走り疲れて、泣きながら歩いて歩いて…
そんな思い出を夢で見たんです」
彼女は微笑する。
「結局、両親に見つけ出されて、
こっぴどく叱られたんですけどね…」
ほとんど吸っていない煙草を灰皿で揉み消し、
斎藤は言った。
「子供の時分の強い記憶は、
心に残ると言うからな…」
「ここ数年、全然見ていなかったんですけど…」
本当に何でもないんですから、と
安心させるように、つけ加えた。
例えこの先、同じ夢を見ても…
目の前にいる男の存在を感じ、
彼女は大丈夫だ、と思った。
ふと、気になって彼女は立ち上がり、
斎藤の前まで行き、ちょこんと正座をした。
些か、伏せがちだった面を上げ、
斎藤は彼女を見る。
「部長の子供の頃って、どんな子だったんですか?」
「何?」
意表をつかれたのか、眉を寄せ彼女を見下ろしていたが、
ふい、と目を逸らす。
「くだらん」
「あ、ずるい。ちゃんと話してくださいよ。
聞きたいんです」
可愛かったのかなぁ…?
いろいろと想像をめぐらしていたが、
ある考えが頭をよぎる。
「…もしかして…好きな子には、
少しでも振り向いて欲しくて、
わざと意地悪しちゃうような子だったんじゃないですか?
…典型的な天の邪鬼みたいな」
斎藤は目を細め、つと立ち上がったと思いきや、
見上げる彼女を立ち上がらせると、
すかさず、さっと抱き上げた。
「ぶ、部長!?」
自分の身体の不安定さに驚き、
彼女は思わず斎藤の肩にしがみつく。
「誰が天の邪鬼だって?」
さて、これからどうしてやろうか?
低い囁き声に、
自分の身に起こるであろう事を予測してか、
彼女は青ざめ、不安そうに斎藤を見ていた。
そんな表情にすら、艶っぽさを感じ、
そそられる。
今更、遅いがな…。
顔を覗き込みながら、斎藤は楽しげに嗤った。
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あとがき
新婚ホヤホヤもしくは、同棲したてのらぶらぶな状態の二人が読みたいと
いうリクエストがありまして、書いてみました。
恋人にとって、一番良い状態ですよねぇ…(え?)
いつもよりは、結構らぶしーんを多くしたつもり…なんですが、
色気ないですなぁ…(涙)
一升瓶をがぁ〜っと飲まないと、これ以上は書けません〜(>_<)
(その前に倒れます…)
タイトルの「短夜」
明けやすい夏の夜の意味だそうですが、
駄文には、
夏の雰囲気もあまり出てないですね^^;
(単に夏に書いただけともいう…)
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