「部長に、ぜひ渡しておいて下さいね」
チョコレートを受け取り、帰ってゆく女性達を見送りながら、
彼女は思う。
朝から何人、この部屋に女性が入って来ただろう?
バレンタインデーであるこの日は、社内の女性達がひっきりなしに、
やって来てはチョコレートを置いて行くのだ。
その際、必ずといっていいほど、部長のいる部屋を意識して、
秘書である彼女に「あのぉ…部長は?」と聞いてくるのだが、
「今日は一日、多忙なので誰にも会わない…と言づかっております」と
答えれば、大抵は残念そうな表情を見せる。
しかし、それでも、
もしかしたら、出て来てくれるのではないか…と再び淡い期待を抱きながら、
しばし待っているが、当の本人は一歩たりとも出て来ない。
そうして、ようやく諦めて帰ってゆくのである。
段ボールに溜まったチョコレートの山を持って、
彼女は上司の部屋へと続くドアをノックした。
「失礼します。またこんなに溜まりましたので、
お持ちしました」
すでに部屋には、
彼女が持ち込んでいた段ボール箱が隅に置かれている。
斎藤は足を組んで座っており、机に肘をついて不機嫌そうに段ボールを見ていたが、
首を振り、溜息を吐く。
「また来たのか?一体、こんなに持ち込んで、どう処理するんだ?
全て『義理』だろうが…」
本当に、そうだろうか?
彼女は持っていた段ボールの中のチョコレートを見下ろした。
そのほとんどが、外国製やら有名ホテルなどの
とても『義理チョコ』とは思えない豪華にラッピングされた
チョコレートばかりだ。
…それに引き替え、自分のは…
内心、彼女は悩み始めていた。
普段は気にしないようにしているが、やはりこういう日は、
自分の上司は女性達から人気があるのだと、思い知らされてしまう。
「大体、甘い物が嫌いだと言っているのに、
毎年持って来るとはな…嫌がらせか?」
「そんな事は、ないと思います。
…部長が、もてている証拠ですよ、きっと」
彼女は、そう言いながら持っていた段ボールを床に下ろした。
「妬いてるのか?」
低い声が囁く。
彼女が振り返ると、いつの間にか上司が背後に立っていた。
「ところで、肝心な奴から、未だにもらっていないんだが?」
「…部長は甘い物は大嫌いと公言していたじゃないですか。
だから……」
山積みになっているチョコレートが嫌でも目に入って来る。
彼女は俯いて謝った。
「その…すいません…。実は、用意してなかったんです…」
「……ほう。俺も随分と有能な秘書を持ったもんだ」
それっきり沈黙が部屋に漂っていたが、勢いよくドアを開いた
闖入者によって、霧散された。
「何だ、いるじゃねぇか。社内で取り込み中だったか?」
土方副社長が入って来て、二人の様子を見ると、
その端正な顔が、にやりと笑う。
彼の手に持つ大きな手提げ袋に、彼女は、いち早く気づいた。
やっぱりチョコレートの山だ。
「副社長…お持ちになっているのは…」
「ああ、社内を歩いてりゃあ、知らずに集まって来るんだぜ」
…そう説明したところで、隅に置いてある段ボールに目を止め、
眉間に皺を寄せた。
「何だ、斎藤。てめぇも、もらってんのかよ。
ところで、あんたも用意してるのか?」
「えっ!?は、はい!!」
背後に立っている斎藤を気にしながら、彼女は頷いた。
土方には、日頃からいろいろ世話になっている手前、
買っておいたのである。
「早く、持って来な。ありがたく、もらっとくぜ」
少々、お待ち下さい、と彼女が急いでチョコレートを取りに行っている間、
土方は斎藤を横目で見た。
「おい、いつも以上に仏頂面、下げてるんじゃねぇ。
その様子じゃ、まだ、もらってなかったのかよ?」
斎藤は応えない。
「すいません、お待たせしました。
あの…あまり高い物じゃ、ありませんが」
持って来たチョコレートを渡そうとした時、
ふいに肩を掴まれ、副社長の胸元に彼女は体ごと
押しつけられた。
「ありがとよ。あんただったら、義理でなくて、
本命でも全く構やしねぇ」
明らかに斎藤を挑発している土方に抱き寄せられた彼女は、
慌てて彼から離れようとしたが――
「会議は10分後。遅れないようにして下さい」
斎藤は二人の脇を通り過ぎ、部屋から出て行ってしまった。
「ふうん。いつもの奴らしくねぇな」
斎藤が行った途端に、
すっ、と離れた副社長に、彼女は驚きつつ、彼を見る。
「普段なら、すばしっこく俺から、あんたを引き剥がしてるだろうによ。
今回は相当、頭に来てるか…」
「……チョコレート、部長に渡していないんです。
嫌いだから、用意していません…そう言ってしまいました」
「フン、意外に骨身に応えたかもな。
だが、本当に用意してない訳ねぇんだろ?」
彼女は頷く。
「恥ずかしいんですけど、自分で作ってみたんです。
本当は買おうかな?って、悩んだけれど、
手作りの方が特別だと思いましたし。
でも、部長に渡されるチョコレートを見ているうちに、
やっぱり既製品にしておけば良かったんですよね」
「…あの野郎が俺より上等な物、もらうなんざ
気にくわねぇな。
それとよ、言っておくが、恋に弱気は禁物だぜ」
土方は、彼女の頭に軽く手を載せ、
ぽん、ぽん、と軽く叩いた。
「今日中に渡すか、渡さねぇか、
そいつは、あんた次第だ。
まぁ、後悔しないよう頑張りな」
やれやれ、会議に遅れちまう…そう言いながら、
土方は副社長室へと戻って行ったのだった。
すっかり日が暮れてしまった廊下を彼女は歩いていた。
窓から街の夜景を見つめる。
上司は会議に出て行ったきり、戻って来ない。
チョコレート、どうしよう?
副社長に言われた言葉が何度も頭をよぎっては、
考えてしまう。
何だか溜息を吐きたくなった彼女に、
突如、背後から腕を力強く引っ張られ、
「うひゃあ!!」
そのまま彼女は、近くにあった会議室へと押し込められると、
ドアは静かに閉められた。
「何て悲鳴を出すんだ?色気も何も、あったもんじゃない」
「……部長!?もう、驚かさないでください」
怒って、そう言ったが、
ふと自分の頭のすぐ脇に腕が置かれ、
目の前には立ち塞がる上司という、
この体勢に彼女は気づいて、ごくん、と唾を飲み込んだ。
「副社長には、随分と気前が良いんだな」
「…………」
「だがそれ以上に、気にくわんのは…
お前が嘘を吐いている事だ」
はっ、とした彼女の表情を見て、
斎藤は皮肉混じりの笑みを浮かべる。
「図星だろう?
最初っから見抜かれる嘘は、つかない方が身の為だったのに…」
「部長っ!?」
ブラウスのボタンがひとつ、またひとつと外されてゆくのに、
彼女は気づき、上司の手を掴んだ。
斎藤は彼女の手を持ち上げ、唇を押し当てた。
「チョコレートなんざ食えんが、こっちの方が遙かに甘い」
「ぶ、部長!!こ、ここは、会社です」
「それが?副社長とは親密そうにしていただろう?」
全く意に介しない斎藤に彼女は、ついに声を張り上げた。
「チョコレートなら、あげますっ!!差し上げますから!!」
言葉には出さないが、上司が理由を言え、と首を傾ける。
「女性達が持って来たチョコレートは、みんな高そうで…。
それに比べて、私のは作った物だし。
出来たけれど、形も変なんです」
「それで引け目を感じてたのか?」
聞いていた斎藤はポケットから煙草を取り出すと、
燐寸で火を点した。
「…俺がお前に何かを贈ると仮定して――」
ふう、と煙を吐く。
「だが、値が張るような高価な物じゃない。
それは以前に拒絶されているしな」
そう言われ、彼女は赤くなった。
「それじゃあ、何がいいかと考える。
例えば…
道端に咲いてるような…ありふれた、つまらない花を贈る事にする。
それでも、拒絶するか?」
「そんな事ありません!!
部長が、くださるなら、
どんなお花よりもきれいに思えますし、
すごく嬉しいです」
本心から彼女は答えた。
「俺も同じだ」
「でも…甘い物は、嫌いなんでしょう?」
「フン、大嫌いだ」
「それなのに、受け取ってもらえるんですか?」
「ああ、もらってやる」
「一つぐらいなら、食べてくれます?
あまり甘くならないように気をつけて作ったんですけど」
「…………努力する」
些か困った様子になり、近くのテーブルに置いてあった灰皿で
煙草の火を消す上司に、
彼女は、なんだか次第におかしくなって、
くすくす、と笑い声が漏れた。
斎藤は不機嫌そうに彼女を睨んでいたが、
視線を下げてゆき、目を細めた。
熱心に何を見ているんだろう?と
彼女も同じように視線を下げてゆけば――
ボタンが外されたままだった!!
ようやく思い出した彼女は、
慌てて、それらを嵌めようと彼に背を向け、元に戻し始めた。
「何だ?そのままで良かったのに」
背後から、すっぽり抱きしめられ、
耳元で低い声が囁いた。
「だ、駄目です!!折角、治ったのに、また風邪ひいちゃいます」
「幸い、廊下に人の気配もない。このまま――」
またしても、いつものように上司は彼女をからかっている。
そうだ、こういう時は…
「な…な…」
幼い頃に祖母に教わった言葉を彼女は懸命に思い出した。
「ならぬものは、ならぬものです!!」
「その言葉、どこで覚えてきた?」
上司の口調が変わったので、彼女の方が戸惑ってしまう。
「…曾祖父母が会津の出、だったんです」
参った、というように上司は吐息を吐いた。
「……仕方ない」
解放されて、自由になった彼女は、
どうしても気に掛かり、上司に尋ねてみた。
会津と何か関わりでもあるのか?…と。
斎藤は何も言わず、ただ、儚く微笑んだだけだった。
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