仕事に就いて一週間ほど過ぎたある日、彼女の為の歓迎会が開かれた。

社内各部署の社員達が集まり、落ち着いた和風の座敷の中は、
酒も入って時間も過ぎれば大層、賑やかになってくる。

それぞれの席は、主役である彼女以外は、くじ引きによって決められ,
今、彼女は隣に座っているのは、およそ自分と同じ年ぐらいだろう
と思われる男性だった。
別の部署に所属しているので、彼女は、あまり顔を合わせた事がなかったが、
向こうは、こちらの事を知っていたようで、
自分が今夜の主役の席の隣に当たった知ると、嬉しそうに最初から話しかけてくる。

儀礼上、返事を返していただけだったが…。

男性はビールを注ぎながら、彼女の顔をまじまじと眺め、
尋ねてくる。

「君が斎藤部長の秘書なった人か…。
入った当初から気になっていたけど、なかなか話しかけられなかったんだ。
タイミングなくてさ」

「そう…なんですか」

あまり酒に強くない彼女は、一口、二口、少しずつ口に含んでいるものの、
頬は、すでに桜色に染まってきている。

ぽーっと、少し気だるい気分のまま、何気なく斜め向かいを向いた時だった。

自分を見ている上司と目が合ってしまった。

冷ややかに見つめる眼差しに、彼女の酔いが少しだけ醒めた気がした。

何…?

その隣は…というと自分を上司の元へと案内してくれた総務部の女性…桂木が座っており、
徳利を持って彼の杯に酒を注いでいる。

くいっ、と杯に入った日本酒を斎藤が一気に煽れば、
桂木は、

「まぁ、斎藤部長って、本当にお強いんですねぇ」

などと、やたら褒めちぎりながら、再度、酌をするのである。

彼らの背後には、すでに空になった徳利が何本も転がっているのが見えた。

「……それでさ、もし良かったら、今度俺と…」

「ごめんなさい。ちょっと酔いを醒まして来ますから」

「え?あ、ああ、そう…」

立ち上がると、彼女はすぐに化粧室へと向かった。

俯き、洗面台の両脇に手をついて、一人になれた静けさを満喫する。
やがて面を上げて、鏡に映る自分を眺めていたが、
どういう訳か先程の上司の表情が浮かんできてしまうのだ。

軽蔑しているような眼差しだった。
ああいった表情を見せた時は、自分にとってロクな事がない。

自分の熱を帯びた頬に両手を当て、しかめっ面をする。

仕事に就いてからというもの、あの上司は日ごとに無理難題を押しつけてくる。

何か、恨みでもあるのかしら?

初日を思い出す。

あのぶ厚いファイル整理も残業して片付けられたから良かったけれど…

一週間過ぎた…だが、
まだ充分に仕事に慣れていないのと、続く緊張と
何より、あの上司の皮肉混じりの冷酷さに精神的に、かなりの負担なのだ。
このまま自分は、やっていけるだろうか?

先行きが不安だった。

こんな弱気になっているのは、お酒のせいか…

いつも前向きな性格が、取り柄のつもりだったんだけどね――

外の風にあたって、気分を直そう…

彼女は化粧室を出ると、静かに休める場所を探した。

折良く、店の者がいたので尋ねてみれば、
中庭だったら、誰もおりませんよ、と教えてくれた。

「御気分、すぐれませんか?」

心配そう尋ねる店の者に慌てて首を振り、
大丈夫だ、と礼を言ってから教えられた中庭へと彼女は向かう。

店の建物に合わせ造られた広い日本庭園だった。

大きな池があり、丁寧に刈り揃えられた松が見目良く植えられている。
灯籠には火が灯り、懐かしく柔らかい光景だった。

少しだけ、ここにいて、酔いが醒めたら戻ることにしよう…

彼女は、その場に腰をかけ、しばし夜風にあたっていた。
火照った頬が熱い。

ちょっと飲み過ぎたかしら?
早く醒めればいいんだけど…

池の水面が揺らいでいるのを見ていた時だった。

「主役がこんな場所に、いるとはな…」


低いが、良く響く声だった。

彼女は内心、不機嫌な溜息をつきながら振り返る。

「酔いを醒ましてから戻りますから。
部長は戻って、お好きな日本酒でも飲んでいて下さい」

一人にしておいて欲しい…

そんな意味合いを含め言ってみたが、
上司は立ち去らず、あろうことか彼女の隣に来ると
そのまま座り込んでしまったのである。

「な、何っ!?」

いきなり額に冷たいものが押しつけられたので、彼女は驚いて
手に取って見てみれば、濡れたタオルだった。

「水もあるぞ」

氷が浮かんだグラスを傍らに置く。

「酒が弱いクセに注がれるまま飲んでるからだ。
自分の限度ぐらい認識しておけ」

悔しいが、尤もな言葉である。

「さ、斎藤部長だって、随分飲んでいたじゃないですか!!」

ポケットから煙草を取り出し、火を点けながら、

「阿呆、日頃から飲んで鍛えているんだよ」

などと言ってのける。

好きで飲んでいるんじゃないのっ!!

ふんわりと煙草の香りが漂ってくる。

それっきり話すこともなく、しばらく沈黙が続いた。

彼女は額に濡れタオルを載せ、
頭上を見上げれば、うっすらと雲が見えた。
今夜は星が出ていない。

「隣の奴と…何を話してた?」

欠伸が出そうになって手で口を押さえた時、唐突に上司が口を開く。

「え?」

「随分と親しそうに見えたんでな」

「普通に会話していただけです。…あの人の名前…何て人だったかしら?」

酔っているせいか思い出せない。
ますます気だるくなってくるし、次第に瞼も重くなってゆく。

「……そうか」

ふう、と煙を吐き、肩に重みを感じたので見下ろせば、
彼女が、もたれかかっている。
濡れタオルは額から落ちていた。

気づかぬ振りをしたまま、斎藤は煙草を吸い続ける。

「今だから…言える…んですけどね…」

ぼんやりとした口調で、少し笑みを含んだ声で彼女は話し出した。

「面接した日…私…部長に…会って…いたんですよね…」

素面であれば、わずかに強張った身体の感触が伝わってきたのに、
彼女は気づいただろう。
だが、酔いのまわっている今は、そのまま話し続ける。

「初めて…会って…
何て…強い瞳…の人だろう…って、思いました…。
……深くて…鮮やかな…琥珀色…の。
忘れ…られなくなる…」

「会った事などない…そう言ったな」

「……だって…あんな自分…見られて…恥ずかしい…じゃないですか…」

喫茶室で彼女と初めて会った時の事を思い出す。
一部始終、目をそらせず見ていた斎藤と目が合うと、
赤面して脇を通り過ぎて行ってしまったのだ。

「こっちが…初めて会った…ふりをして…いれば…
部長も…あの時の…事…なんて、忘れて…くれるだろう…って」

「フン、強烈すぎて忘れられるか」

あれ以来、片時だって忘れられなかった。

「なんて…ひどい…上司に…当たっちゃった…んだろうって」

眉をしかめて、彼女の方を見る。

確かに…
これまで彼女に対する態度は、我ながら酷かったと思う。
忘れ去られたのが腹立たしかった故だったが。

「憶えていないフリをしていたお前が悪い」

「…ごめん…な…さい…。
ふふ…私…なんだか…酔って…ますからね…
お茶…ううん…お水…飲まなくちゃ…」

言っている言葉が、どんどん支離滅裂になって来ている。

溜息を吐きながら携帯の灰皿に吸い殻を押し込んだ後、
仕方なく置いておいたグラスを取ってやり、
飲ませようと彼女の顎に手を掛けた。
わずかに開く唇に目を落とす。

「酔っている」

自らの口に水を含むと、彼女の唇に唇で触れて、注ぎ込む。
一口飲むと同時に、ぱたりと…彼女の手は床に落ちた。
瞳を閉じて静かに寝息を立て始める。

「手に入れてやる。必ず…な」

口端から流れた滴を拭ってやり、眠る彼女を抱き寄せ斎藤は囁いた。

 


目を覚ました時、すぐさま横たえていた身体を彼女は慌てて起こす。

腕時計を見て見れば、それほど時間が過ぎていないことに
ほっと胸を撫で下ろした。

「戻らなくちゃ…」

ふいに上司の事を思い出し、無意識に指を唇に当てる。

話していたのは憶えているけど…その後は…

「ああ、良かった。そろそろ起こそうかと思っていたんですよ」

店の女が襖を開けて入って来た。

「さっきまで上司の方が、ずっと貴女を看病されてましたよ。
頃合いを見て、起こして欲しいって仰ってました」

「それ、本当ですか?」

部長が?

傍らに座ると、彼女の胸元に落ちた手ぬぐいを拾いながら、

「ええ。良い人を上司に、お持ちですね。
ここに貴女を運んで寝かせてくれたり、
額に載せたこの手ぬぐいを何度か水にさらして替えてましたよ。
よっぽど大切に、されているんでしょうね。
何だか…恋人を看ているような雰囲気で…。
あら、すいません、余計な事言って…それじゃあ」

笑いながら謝り、水の張った盥を片付け出て行った。

そんなに心配してくれていたの?


やがて、彼女は首を振った。

だとしたら、それは上司として、したまで…なのだろう。

互いに酔っていた…

それだけ…だったのだ。

そう思う事にした。

掛けられていた毛布を畳むと、彼女は部屋を出、
宴の席へと戻って行った。


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あとがき


なんだか凝りが残る、はっきりしない終わり方ですね^^;
「沙羅」の方では当分斎藤部長の出番がない予定なので、
淋しい…と思い、1000HITの御礼小説で書いてみました。
しかし番外編というか…使いまわしというか…


ハッピーエンドのお話も大好きなのですが、
まだ両思いになってない不安定な状態で、
そこに辿り着くまでの過程を書くのも楽しいです。
先は分かっているけれど、
過去に、こんな話があった…なんてのを
今後も書けるなら書きたいと思ってます。


しかし、斎藤部長…手が早いな(ぼそっ)



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