□第一話




何気ない一言が、とんでもない大事を引き起こすことがあるのだと、

前に立つ上司の背を見つめながら、沈んだ気持ちで彼女は考えていた。

ほんの20分前のことだった…いや、30分以上は過ぎただろうか?


高層ビルの中にあるオフィスでは、書類を階下の課に届ける為、エレベーターを利用する。
彼女は、いつものように扉の前に立ち、上から降りて来るのを待っていた。

エレベーターの扉が開き、一歩足を踏み入れた直後、

「よぉ」

掛けられた声に、驚き、彼女は、やや俯きがちだった顔を上げた。

その声の主が誰か分かるや、彼女は青ざめ、それからすぐに耳まで赤くなる。

「土方副社長っ!?あ、あの先日は大変失礼しましたっ!!」

彼と飲んだ時、酔いつぶれた挙げ句、寝てしまったという自らの失態を思い出し深々と頭を下げる彼女。
仮にもこの人は、自ら働く会社の副社長なのである。

片方の肩で壁に寄り掛かって書類を読んでいた土方は、
その長身をゆっくりと起こしながら、

「気にする事ねぇよ…何階に用があるんだ?」

そう、あっさりと言ってのけた。

「…あ、大丈夫です!!自分で押しますから」

ただでさえ、先日は迷惑をかけたというのに、これ以上、手間をとらせる訳にはいかない。
すばやく降りる階のボタンを押し、どことなく畏縮がちに、副社長の脇へと彼女は移動する。

「あの…本当に、すみませんでした」

「何度も謝ってんじゃねぇ。こっちは気にしてねぇって、言ってるだろ…
だけど…寝顔は可愛いかったぜ」

過去に幾度となく見た意味深な流し目と口端を上げる土方の表情には、
大人の男の色香が、たっぷりと溢れていた。
この端正な容姿では、本人も認めるように、さぞかし女性が放っておかないのだろう。

しかも、こういう言葉が、さらりと言えちゃうし…な。

当たり障りのないように話題を変えよう…彼女は出来るだけ、さりげない口調で話を切り出すのだった。

「……そ、そういえば、もう夏休みなんですよね。
通勤途中で、やけに空いてるなぁ…なんて思ったら、学生の姿がない事に気づきました」


この一言が…。

後に何度、口にしなければ良かったか、と彼女が後悔する事になるとも知らずに───


「夏休みか…。そういや、去年も仕事で潰されて取ってなかったな。
いや、……待てよ?」

眉間に皺が深く刻まれた。

「一昨年だって、結局取らずに終わっちまってたじゃねぇか。
このままじゃあ、今年だって…畜生!!ここ最近、傑作の俳句が作れてねぇ…」

「傑作って何ですか?」

「何でもねぇ!!」

疑問そのままに尋ねると、土方の顔が、赤くなったように見えたのは、
気のせいだろうか?

彼は一つ空咳し、「今日は何日だ?」と聞いてきた。
日付と、おまけに曜日までつけ加えて彼女が答えると、
顎に手を当てて、土方は何か考えにふけっていたが、やがて、にんまりと笑った。

何か、とんでもない、いたずらを思いついた少年の顔みたいだ…

「決めたぜ。これから休暇を取る」

理解するのに、数秒かかった。

「………は?…え?休暇って…ええっ〜!?ち、ちょっと待って下さい、副社長。
突然、そんな事なさったら、社内が混乱します!!!」

「あぁ?俺の代わりとまでは、いかなくても、そこそこやれる奴等は、
ちいっとくらいは、いるだろう?タダで給料払ってるんじゃねぇぜ」

その中には、間違いなく自分の上司である斎藤も含まれているのだろう。

「と、とにかく副社長っ!!」

元はといえば、自分が考えなしに出した言葉から彼を思い立たせてしまった訳である。

ここは、何としてでも、引き留めなければならない。

彼女は焦り、思わず土方のスーツの裾を掴んでしまった。
それを見下ろした土方の目が狭まる。

「何だ?…へぇ、そっちから、誘ってくるとは、な」

伸びてきた手に顎をつかまれ、いつの間にやら、
覆い被さる感じで長身の彼の体が思いの外、いや、予想以上に接近している。
彼女は目を大きく瞠った。

「一緒に行きたいって言うなら、連れてってやるぜ」

「い、いえ、あの、そういう事じゃなくて…、え、ええと…、ましてや、そういう意味でもなくて…ですね。
わ、 私は、単に、お引き止めしようと…」

密室のエレベーターの中、逃げ場がない。これは、とても…ものすごく、困った状態だ。

彼女は今更ながら気づいて、顔が青くなるのは、今日で二度目である。

ど…どうしよう…!?

「引き止める?へぇ、嬉しい事言ってくれるじゃねぇか?
だが、もう決めちまったんだ。
決めたからには、それを取り消さねぇし、変更も、しねぇ。
てぇことは、誰も俺を引き止めるなんざ、出来やしねぇんだよ」

土方は、つらつらと一人台詞を吐きつつ、
端正な顔を彼女に近づけていった。

このままでは、絶対に逃げられない。

彼女は、ぎゅっ、と目を強く瞑り、

「さ…」

一声、発したのと同時に、ポーン、と彼女が降りる予定だった階へと到着した音が鳴って、
エレベーターの扉が開いた。

目を開いて、土方の肩越しに見たものは、まさに名を呼ぼうとした名前の持ち主であり、
正真正銘、彼女の上司が立っていた。

彼は無表情で、二人を見ながら、ゆっくりと自らの胸の前で腕を組む。
琥珀の双眸は金色を帯びて、異様に…鋭かった。

「あ、あの、降ります!!」

急いで土方から離れ、エレベーターから出ようとしたが、すかさず二の腕を掴まれてしまい、
彼女は驚き振り返る。

腕を掴まれたまま、扉の前にいる斎藤の所へと連れてゆかれ、
緊迫した空気が流れる中、彼女は代わる代わる二人の男の顔を見た。

ふっ、と土方が口端を上げた時、張りつめていた気が、わずかに緩んだ。
一方、斎藤は表情を変えていない。

「安心しろよ、からかってただけだ。これからの俺の予定については、彼女から聞きな。
冗談に、つきあわせて悪かったな」

ぽんっ、と頭に手を置かれ、彼女は混乱したまま土方を見上げた。
束の間、優しい微笑を見せる彼に、驚いてしまう。

エレベーターから降りると、扉は閉まり、下へ下へと下がってゆく各階を点滅しながら示す
扉の上の数字を彼女は、ぼんやりと見ているしかなかった。


行ってしまった…


「ついて来い」

我に返り、振り返ると上司は、すでに歩き出していた。
エレベーターの扉を見て、束の間、逡巡していたが、やがて踵を返すと、
上司の後へと彼女は続いた。


数分後───

「さっきのは、どういう意味だ?」

その時間、使われていない会議室へと彼女は連れて行かれ、椅子に座らせられている。

一方、上司といえば、背を向け、部屋に入った時から外の景色ばかりを見て、こちらを見ようともしない。

「……申し訳ありません」

「謝罪より先に、理由を言え」

抑制されてはいるが、明らかに苛立ち混じりの声である。
部屋に入った当初から、これでは神経が安まらない。

そっけない背中ごしの言葉だけ…

一体、どんな表情しているのか分からない上司に彼女は
どこから話せばいいのだろう?と内心迷ったが、やがて深い深呼吸すると、話し始めた。

「は…い。実は…ですね」

ぽつりぽつりと、 一部始終を話し終えた時、上司は、ひとつため息をつき、
眉間を指で押さえている様子だった。
少し過ぎて、ようやく振り返り、 眉を寄せたしかめ面で、じっと、
彼女を見下ろした時には、 いつも通りの琥珀へと戻っていたが…

「それじゃあ、何か?副社長不在の尻ぬぐいは、俺達にしろと?」

「………そういう事だと思います」

「ったく、何を考えているんだか、あの人は!?」

舌打ちし、胸ポケットから煙草を取り出す間際、何かを思い出した表情になり、
ぴたりと、指が止まる。
やがて、上げかけたその手を元に戻した。

「…エレベーターの中では、随分と親密そうにしていたな。
あれは、何だったんだ?」

「え?」

立っていた窓際から、すばやく移動した上司は、固まった彼女の脇の椅子を引き、腰を下ろす。

「阿呆が。また迫られていたんだろう?全く、学習能力がない奴だ」

「またって、どういう意味です?副社長は、冗談だからって仰ったじゃないですか」

それをそのまま鵜呑みにするか…?

「……この間の二の舞は、したくないしな」

そう口の中で呟き、

「ったく、無防備すぎるから、こっちは目を離していられない」

「は?」

自分をまっすぐに見つめ返す彼女の瞳に曇りは、欠片もなかった。
こっちが、どれだけ強く惹かれているかなど、まるで気づいていないのだから…

髪を掻き上げ、前方を向いたまま、上司は語る。

「今回の事は、外部に漏れないよう、早めに手を打っておかねばならない。
承知しているだろうが、他言無用だ」

「こ、心得てます!!」

「それと……」

脇目で見られた時、彼女の鼓動が高鳴った。

「副社長とは、何でもないと?」

「は?は、はいっ!!」

上擦った声で返事し、強く頷く。

「俺に隠し事は、何もないと言えるんだな?」

「はいっ!!」

今度も勢いよく頷いた。

「………俺の言う事は、何でも聞くか?」

「はいっ!!…って、えっ?ちょ、ちょっと待って下さ……」


言葉は途切れる。唇によって、封じこまれてしまったからだ。


「……言い訳は、却下。さて、何をしてもらおうか?今夜までに考えておく」


ようやく離した彼女の唇を、今度は親指で、なぞりながら、囁く。

すっかりのせられてしまったのと、のぼせてしまった自分に脱力し、
彼女は、上司の肩に額を載せかけたが、すぐに、
はっ、と頭を上げる。

「で、でも、本当に大丈夫なんですか?副社長が不在で…」

ようやく取り出した煙草に火を点けながら、斎藤は苛立たしげに言った。

「こうなった以上、何とかするしかないだろう。
全く、部下の事を考えているんだか…」

「副社長って…」

「何だ?」

何でもないです、と彼女は強く手を振ったが、言ってみろ、と上司に強要され、
ためらいがちに口を開く。

「…いえ、あの、ですね。すごく失礼ですけど、何だか子供っぽくて、
その… 可愛いですよね。あ、恋愛感情とか、そういうのじゃないですよ!!
ただ、何となく母性本能が、くすぐられるというか……部長、煙草お吸いにならないんですか?」

煙草を持ったまま、長い間、この上ない仏頂面になったままの斎藤に
心配になった彼女は尋ねた。

「………………可愛い?」

どこが、だ?

仕事が出来ないと判断すると、情け容赦なく即刻クビにするわ、
取引では、あらゆる手を使ってでも自分の社に有利にさせてしまうわ、
社内といわず、取引先でも「鬼の副社長」と呼ばれ怖れられているあの男の
どこが、『可愛い』というのか…

自分達に仕事を押しつけていった件もあるが、
彼女が微笑みながら土方の事を話すのも、斎藤にとっては、かなり気に障る。

「…フン、やられたままじゃ、面白くないからな」

携帯を取り出し、どこぞに電話をかける上司の横顔を彼女は不思議そうに眺めていた。



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