□第二話
数時間のドライブで、ようやく運転から解放された土方は、
車から降りて、眼下に広がるその風景を眺める。
「ようやく着いたな」
見上げた先には自分の所有する洋風の別荘。
別荘は高台に建っており、その周辺を多くの木々によって、囲まれており、
緑によって寛げる空間になるよう、配慮してある。
管理人を雇っているので、常に掃除は怠りなく、
定期的に設備点検も欠かさないので、いつでも使えるようになっていた。
ここに来るのは、本当に何年ぶりのことか―――
「…数年の間、仕事づくめの生活だったしよ。
ゆっくり一人の時間をとことん楽しんで、傑作の句でも作ってやろうじゃねぇか」
大企業の副社長――自分の為の時間など無縁のものだった。
企業間での熾烈な競争、時には手段を選ばぬ非情さ故に、
社外のみならず、社内の社員でさえ、怖れられる鬼の副社長。
それが、自分だ。
ま、どう思われようと、後悔は、してねぇがな―――
一人、苦笑いした。
都会とは異なり、涼し気な風が流れ、土方は前髪をかき上げる。
しかし、季節は夏なので、暑いことに、変わりはない。
気分直しに冷たいシャワーでも、浴びるか…
トランクから食料を取り出し、
別荘に入るため、鍵を開けようとしたが――
「開いてる?」
管理人は、ここに来ていなければ、いつも施錠している筈だが…
不審気に玄関の扉を開けた瞬間、土方は身体を強張らせた。
「おかえりなさいませ、歳ぼっちゃま」
三つ指ついて出迎えた小柄な老婆が、面を上げ、微笑むのを見るや、
あとずさり、背が玄関の扉に強く当たる。
「おっ、おっ、おヨネ!?何だって、こんなトコにいる!?」
「そう申されましても、ヨネは、歳ぼっちゃまの身の回りのお世話をするため、
ここにおるのです。ぼっちゃま、お一人では、食事だって、ロクに作れませんしね。
…そんなモノ召し上がられていたら、細いお身体が、ますます細くなってしまいます」
行きがけに、コンビニで滞在する間分だけ、買い込んだインスタントの食料品の山が
入った手提げ袋をヨネは、いまいましい…、と睨みつける。
「っ、人が食うモノに文句つけるなっ!!
だ、大体、俺がここに来るコト、一体、誰に聞いた!?」
「斎藤さんですよ、土方さん」
こいつも、いやがったのか…。
奥から、おかしそうに笑いながら、一人の青年が出て来た。
どこか幼さが残る顔立ちをしているが、初めて会った人は大抵、
爽やかな好青年だ、と彼を評価する。
殊の外、子供と老人には好かれるようで。
「総司っ!?てめぇも一緒なのか!!
大学は、どうした?」
「やだなぁ…とっくに夏休みですよ。
だから、土方さんも夏休み取ったんでしょう?」
そうだった、こいつはガキの頃から笑顔で皮肉を言いやがる…
沖田総司。
土方にとって、かつての幼なじみであり、
向けてくる笑顔は、幼い頃となんら変わらないは、ない。
斎藤は今回の件で、よほど腹に据えかねたのだろう。
よりによって、この二人を送り込んで来ようとは…
やっぱり侮れねぇな…あいつは。
土方は、しかめ面のまま唇を噛んだ。
「とにかく、ここで俺は数日間、一人で過ごすことに決めたんだ。
悪いが、さっさと帰ってくれ」
社内だったら、間違いなくほとんどの社員は怖れをなして震えあがるであろう、
冷たい口調で言った土方だったが――
「無理なんですよ」
「あぁ?何がだよ?」
沖田は、ますます笑顔になって説明する。
「ここは、田舎ですからね。バスが一日に数本しか通ってなくて、
時間通りに来るのかも、あやしいですし、今日の最終なんて、とっくに行っちゃいましたよ。
来る時だって、私は免許持ってませんから、おヨネさんと電車で来て、
それから待ちに待ったバスに乗って、ようやく辿り着いたんです。
そりゃあ、もう本当に大変だったんですよ」
「でも、総司さんとの旅は、とても楽しゅうございました」
ほほほ、と和やかに笑う二人を見て、土方は深いため息を吐く。
「歳ぼっちゃま」
「今度は何だ?」
うんざり気味に尋ねれば、
「ヨネは、ぼっちゃまがここに滞在なさる間は、例え殺されようとも、
ここを動く気は毛頭ございません」
勘弁してくれ。
…それに、殺したとしても絶対に末代まで祟られそうだ。
「おヨネさんの性格、土方さんが、よぉ〜く分かってますよね?
育ての親みたいなものですし」
ねぇ、おヨネさん、と沖田が促せば、老婆は深く頷いた。
「まことに…小さい頃のぼっちゃまは、品が良く、色白で、素直で、可愛いらしくて…」
「シャワー浴びて来る」
ヨネが昔話を語り出すと長くなることを知っている土方は、苦虫をつぶしたような顔で、
その場から風呂場へと逃げ込む。
沖田の楽しそうな笑い声が聞こえたので、ドアを思いっきり閉めてやった。
それから30分以上、冷水を浴び、軽装に着替えた土方は、
濡れた髪をタオルで拭きながら、庭に置いてある籐の椅子に腰掛けてくつろぐ沖田の元へと
近づいて行った。
テーブルを挟み、向かいあったもう一つの椅子へと不機嫌そうに座り込む。
「ああ、シャワー浴びて来たんだ。
水もしたたるいい男ですね…まぁ、土方さんの場合は、いつ見てもいい男でしょうけど。
最近、泣かせた女性、また増えたんじゃ…」
「軽口、叩いてんじゃねぇ。
それより、お前らがここに来たのは斎藤から電話があったから…なんだよな?」
「そうですよ。土方さんが急に夏休みを取ってしまったんで、
今頃、会社の人達は本当に困ってるでしょうねぇ。
でも、斎藤さんは、
土方さん一人じゃ、身の回りに不便をきたすだろうから、手を貸してやってくれないか?
…って、頼んできたんですよ。
優秀な部下を持っていい事ですよ、土方さんは」
あの野郎、完全な腹いせじゃねぇか!!!
歯ぎしりしそうになるのを何とか止めて、
「だからって、お前一人ならともかく、よりによって、おヨネまで連れて来ること
なかったじゃねぇか」
「おヨネさんと会うの、久しぶりでしょう、土方さん?」
「…ああ、そうだったな」
言われてみれば数年ぶりだ…ここ何年も会っていなかった。
「土方さん、多忙な人だから、なかなか実家に帰って来れないし。
ず〜っと前からおヨネさんは土方さんに会いたいって…思っていたんですよ。
口には出しませんでしたけどね。
あの人にとって、土方さんや私は、子供みたいなものなんです。
それに…私たちにとっても親代わりですしね」
「チッ、そんな事、お前に言われなくても分かってる」
長い間、会ってなかったヨネは、ひとまわり小さくなった感じがした。
二人分の麦茶を盆に載せて、ゆっくりと近づいて来る老婆を眺めながら、
土方は考えていた。
「……俺の邪魔は、するなよ」
テーブルに麦茶を置いたヨネと、驚く沖田の顔を見ながら、土方は告げる。
「それじゃあ、土方さん。おヨネさんと私がここにいる事、
快諾してくれるんですね」
「快諾じゃねぇ!!くれぐれも俺の邪魔は、しねぇと約束するなら、
いてもいいって言ってるんだ……散歩、行って来る」
麦茶を一気飲みして、椅子から立ち上がり去ってゆく土方に、
「あ〜あ、また行っちゃった。素直じゃないんだから…」
「ぶっきらぼうに優しい所も変わっておりませんね」
「ああ、そうですよね!!…流石です、おヨネさん」
「ぼっちゃまの事なら、大抵は分かります」
二人は顔を合わせて、笑いあった。
「すげぇ日差しだな…風は涼しいのによ…」
砂利道を歩いていた土方は、真っ直ぐに差し込む夏の斜光から
遮るように額の前で手をかざした。
確か、ここら辺に湖があった筈だが…
昔の記憶を頼りに足を進めてゆけば、ようやく湖らしきものが、
見えてきた。
水場なので涼しい風が吹いてくる。
どこか日陰になる場所でも探して…、と周辺を見回していると、
折良く、大きな木が視界に入った。
土方が立っている場所から少し離れた距離である。
「あそこなら静かだし、俳句も出来るかもな…」
持って来た自らの俳句帳が入っているバッグを満足気に見下ろす。
あの二人がいる別荘にいたのでは、出てくる句も浮かばないだろうと、
一人判断した土方は、静寂を求めて湖畔へと足を運んだのであった。
近づいていった木は、かなり高く青々と繁った葉を風にそよがせ、
ゆったりと揺らいでいる。
さわさわ、と葉音が鳴る中、静かに…だが絶えず時間は流れてゆく。
葉の間から青い空と白い雲が流れるさまが見えた。
「さて、と…」
始めようと、木陰に入ってゆく…だが、人がいるのに土方は気づき、
怪訝そうな面持ちになる。
先客が、いやがったのか…
白い日傘が開いたまま、転がっていた。
次に草履を履いた白い足袋が目に入った。
視線を上げてゆけば、流水模様の白の紗の着物に白い帯を纏った女が、
木に寄り掛かり、面を垂れ、目は閉じている。
尋常じゃない気配を感じた土方は、すぐに女の前に跪くと声を掛けた。
「おい、あんた。大丈夫か?」
額に手を当てれば、ひどく熱い。
この日差しで日射病でも起こしたか…
声に気づいたか、うっすらと目を開け、うつろな瞳は土方を映していたが…
「…………あなた」
誰かを呼んだ。
頬に涙が伝い落ちるさまを土方は見つめる。
ゆっくりと再び瞳は閉じられ、女は意識を手放した。