視線を下げれば、日本刀がある。
それを両手で持ち、立ち上がると元いた部屋へと彼女は戻った。

刀掛けに置いた途端、
ふわりと風が頬を撫でたような…そんな感覚に襲われる。

漏れていた隣の部屋の明かりは吸い込まれるように失われてゆき、
漆黒の闇が紛れ込んで部屋を覆っていった。

駆け寄って、襖から隣の部屋を覗いたが、
行灯も風も調度も全てがあとかたもなく消えている。

布団の上に戻ると、そのまま彼女は座り込んだ。
人差し指を見れば、切った傷跡と…
ほんの少しだけ痛みが残っていた。

 

深夜―――
土方は苦虫をつぶした表情を浮かべていた。
眠気のせい、ばかりではない。
目の前に立つ男に大半の原因は、あった。

「こんな夜更けに人の家に押しかけて来る奴は、
どこのどいつだ、と思ったら――てめぇか」

自宅マンションのブザーが、けたたましく何度も鳴り、
女でも押しかけて来たか、と土方が防犯カメラを見れば、
「来やがった…」と溜息を吐く。

このまま放っておいて、諦めて素直に帰るような人間ではない。
仕方なく玄関を開けてやれば―――

斎藤が立っていた。

「あいつは、どこです?」

詫びの言葉など無く、単刀直入に尋ねてくる。

「あぁ?」

「昼間、あんたとうちの秘書が車に乗っていたのを、
総務の桂木女史が見かけたそうです。
彼女に借りを作ってしまいましたよ」

「そりゃ人違いだろう。
こっちは今から寝るところだったんだ。
これ以上、人の機嫌を逆なでしねぇうちに、さっさと帰りな」

ドアを閉めようとしたが、何かに阻まれて、それっきり動かない。
見下ろせば、ドアと入り口の隙間に靴先が入っていた。

「あいつは、どこにいるんです?」

ドアに手を掛け、開きながら斎藤は再度尋ねた。

土方は、うんざり気味で腕組みし、目の前に立つ男を睨みつける。

「フン、俺が簡単に口を割るなんざ、
はなっから考えてもいねぇだろうが」

「………明後日の取引、」

その言葉に土方が片眉を上げた。

「俺が欠席したら、どうなります?」

それは、ある企業との最終段階の取引であり、
斎藤が中心となって、かなりの時間を費やし、
ようやくまとまりかけたものだった。
失敗すれば莫大な損失となり、会社にとっては痛手となりうる。

「お前………」

と息を呑んだかのように見えたが―――
実際、土方は嘲笑うように口端を上げていた。

「フン、そこで俺が動揺し白状するってか?
てめぇの変わりなんざ他にも…」

「では、やり方を変えましょう」

最初から見越していたのか、あっさりと引き下がった斎藤を
土方は疑わしい表情で、
これ以上、どう出てくるのかと考えながら見ている。

そして、土方でも予期しなかった、とんでもない事を言い出した。

「俺が知りうる限りのあんたの女性関係を
ヨネさんに包み隠さず報告するってのは、どうです?」

本気ですよ…と、斎藤は強調して言った。

「………っ!!てめっ、何でここにヨネが出て来る!?
関係ねぇだろうが」

育ての親であり、彼にとってこの世で苦手な者ランキングがあれば、
真っ先に上位に名が入るであろう彼女の名を出され、
土方は先ほどとはうって変わり、明らかに狼狽の色を見せている。
斎藤は構わず続けた。

「欲しいものを手に入れる為なら、どんな手段だろうと厭うな…。
これはあんたが言った言葉だし、実行してきた事だ。
そして…」

いきなり、土方の襟を掴み上げる。

「あんたの戯れ言につきあって、振り回されている余裕など
こっちには無いんだよ」

抑えた声だったが、眼光は鋭かった。

「………頭を冷やしな。ったく、元はといえば……ああ、やめた」

掴まれていた手を払い、
前髪をかき上げながら斎藤に言いかけた言葉を
一旦は中断する土方。
そして不機嫌そうに溜息を吐くと、投げやりな口調で呟いた。

「以前、てめぇも会った事があるだろう。
刀が大層好きで蒐集癖のある旅館の主人の所だ。
理由なんざ言ってやらねぇよ。そこまでお人好しじゃねぇ」

「自分で聞きますよ」

慇懃無礼に礼をし、すぐに斎藤は背を向け、その場を後にした。

 

 

そのまま座り続け、それきり一睡もせずに朝を迎えた彼女だった。

―――結局、何も起こらなかった。

布団を畳んだ後、障子を開け、窓も開けてみれば、
早朝の澄んだ空気に庭が浮かび上がる。

下を見れば、石段の上に赤い緒の下駄が一揃え並んで置いてあった。

浴衣の上に上着を羽織り、少しだけメイクをしてから、
窓から降りて下駄をつっかけ、外へと出る彼女。

歩数幅ごとに、丸い石畳が敷かれており、下駄の音をたてながら、
歩いてゆく。
朝のひんやりとした空気に吐く息は白く、紅葉の赤が、きわだっていた。

奥へと入って行けば、池があり、水音がしていた。
そこで彼女は、ぴたりと足を止める。

 

男が佇んでいた。

手に持った袋から一掴みすると、
無造作な様子で、池にばらまいていた。
投げたところには、一斉に餌にありつこうと
たくさんの鯉が集まり、口をぱくぱく開けている。

着流し姿の眼鏡を掛けた男性だった。

彼女に気づくと、手を止めて、

「おはようございます」と微笑み、声を掛けてきたので、
彼女も軽く会釈しながら、挨拶を返す。

近寄っていくと、再び餌をばらまき始めた。

「昨夜は、よくお休みになられましたか?」

この宿の人なんだ…

そう思い、「はい…」とだけ答える。

昨夜のあの出来事を思い出す。
しかし、説明しようにも
何と言えばいいのか分からない…

わずかにそよぐ風で揺れる髪を彼女は耳にかけながら、
餌をもらえるだろうと思ってか池の鯉が自分のところに
集まってくるのを見ていた。

「刀を部屋に置いていただき、ありがとうございました」

驚いて、彼の方を見る。

この人―――

「驚いたようですね?この宿の主人だと名乗る時は、
皆さん、同じようなお顔されますから」

そう言って眼鏡越しに、また微笑んだ。

 

床の間に置かれた刀掛けを最初に見、
振り返って固唾を飲んでいる彼女を見ると、主人は照れくさそうに言った。

「家内は、そんな物騒なものをまた買ってきて…なんて
渋い顔をしております。
勝手な思い込みにすぎないかもしれませんが、
私が刀を選ぶのではなく、刀が私を選んでいる…
そういう感覚を覚えると申しましょうか」

「刀が…?」

座っていた彼女は主人に問いかける。

掛けている眼鏡を押し上げ、頷いた。

「お客様は戯言と思われるでしょう?」

「いいえ…」

彼女も刀を見つめる。

「今は――そうとは思えません」

昨夜の事があったのだから………

眼鏡の奥の眼差しが、一瞬強くなったものの、
主人は明るい口調で話題を変えた。

「そろそろ朝食でもお持ちしましょう」

「あの…私は、これからすぐに帰ろうと思います」

「とりあえず腹ごしらえしたら、どうです?
うちの朝食は評判が良いんですよ。
それにお腹が減った状態では正確に物事を判断出来る頭じゃない。
これは、家内の受け売りですがね…おや?」

いきなり主人が顔の向きをあらぬ方へと変えた。

「困ります。まだお客様はお休みになられております!!」

慌てている女将の声が聞こえ、何かあったのか?と
彼女が振り返る。
入って来た者が誰か分かると、信じられないという表情になった。

「……部長」

「鬼ごっこは終わりか?」

威圧感を漂わせながらも、平らかな声で尋ねる。

「……では、私たちは下がります。どうぞ、ごゆっくり…」

心配そうな表情で自分たちを見つめている女将の肩に手を置いて促し、
刀を持った店の主人は部屋から出て行く。
斎藤は彼らを目の端で見ていたが、それだけではないような気がした。
刀を気にしているのだろうか…?

「…寝てないんですか?」

長いこと、会話は一言も交わさずに向き合って座っていた。
斎藤は、ただ彼女の顔を見続けており、
彼女は、俯いたままだ。

ようやく面を上げ、沈黙を破ったのは彼女の方だった。

「ああ」

「お顔の色があまり良くないです。具合でも…」

「具合が悪くて早退したのは、お前だろう」

不意をつかれた彼女は、上げた顔をまた俯けた。

「は…い」

「何度、連絡しても携帯は繋がらない。
自宅に行けば、不在。
所在が全く掴めずの袋小路だ。
そんな時、
仕事以外には出来るだけお目に掛かりたくない人間が
唯一の情報源だと分かり、行かされるハメになった。
……俺を試して満足か?」

その言葉が出た途端、はっと顔を上げる彼女を
斎藤は冷ややかに見ている。

「いいえ」

「じゃあ、理由もなくいなくなった訳を話してみろ。
副社長を頼っていくからには、よくよくの事だろうが」

「最初から副社長を頼っていった訳じゃありません。
早退した時に偶然、会って…」

「相談に乗ってもらった、と?」

「はい…。でも結局は頼る形となって、ここに来てしまいましたが…」

「何を相談した?」

一時、彼女は膝の上に置かれた両手をきつく握りしめる。

思い出すのも苦しい…だけど…

「…………抱きあっているのを…見たんです。女の人と…」

「女?」

「昨日、会社で…」

「副社長が、か?フン、それを見て気分が悪くなり早退したのか…」

「…………」

悲しそうに自分を見つめる彼女に、刹那、斎藤は悟る。

「……俺か?」

しばらく眉間に皺を寄せ、思案している様子だったが、

「ああ、成程な。それで俺が時計を買うと言った時、『愛人』と――」

彼女の朱色の染まった顔を見ながら言い、一人納得したようだった。

「だから、部長がその人を好きなら…」

「昨日、どこでその場面に出くわした?」

「……どこって…」

唐突に話の矛先を変わり、
戸惑いつつも残る記憶を引き出して、頭の中で懸命に彼女は思い出す。

自分が立ち止まって――前方に抱き合う二人の姿があった。
そして…二人の背後には―――

「……非常階段…でした」

「思い出したようだな。
いくら俺が冷酷と言われていようが、
足を踏み違えて落ちてきた女を
抱きとめてやるだけの善意は持ち合わせてるが…。
それに社内で逢引するんなら、人気のない場所を選ぶ」

それじゃ…自分一人の勝手な思い込みにすぎなかったと…
彼女は羞恥に、ますます顔が赤らんでゆく。

「そ、それだけ…だったんですか?」

「……信用出来ないか…。それじゃ仕方ない」

「………」

「仮に、その女と俺が何かあったとして、
潔く身を引くつもりだったんだろう。
お前にとって、俺の存在は、その程度だったと。
これで良く分かった」

立ち上がると冷ややかな口調で付け加えた。

「とんだ無駄足だったな」

「部長……」

見上げた時、昨夜の男の面影が彼女の目に映る。

『想う男を消し去るのは簡単か?』

「………違います」

『時間をかけて、その男を忘れ去る事が出来るのか?』

「そうじゃないんですっ!!」

彼女も立ち上がり、斎藤と真正面から向き合う。

「私は……あなたが好きです…」

上司は無言のまま彼女を見つめていた。

「だ、だから、…ものすごく嫉妬して…その、誰にも渡したくないから…部長っ!?」

言ってしまった後、無反応な上司に急に自信がなくなり言葉も覚束なくなっていった時だった。
いきなり肩に斎藤が自らの額を押しつけてきて、その重みに驚きながら間近になった彼の顔を見つめる。

彼は―――嗤っていた。

「やっと嬉しい言葉が聞けたな」

「だ、騙したんですか!?」

「戦略の内、だ」

「ひ、ひどい…。私、本気だったのに…」

仕掛けられた罠にまんまと嵌ってしまった。
上司の性格を、すっかり忘れていた自分に脱力し、
その場にしゃがみこんでしまった彼女。
すぐ後に、斎藤も座り込み彼女の膝に頭を載せ、仰向けになった。
膝枕の状態で涙目になっている彼女の顔を彼は下から見上げている。

「探し回った身にもなれ。
このくらいしなきゃ割に合わんだろうが…。
ま、これだけ心配させられたんだから、詫びの一つくらい欲しいものだな」

「詫びって…?」

不思議そうに上司を見ていた彼女だったが、
相手が何を要求しているか分かると―――

「あ、あの…」

「どうした?さっさとしろ」

目を瞑って急かす上司に、彼女は、ためらっていたが、
顔を下げてゆき自分の唇を彼の唇に軽く触れ合わせた。

おそるおそる顔を上げると、不満そうな斎藤の表情に出くわす。

「何だ、今のは?」

後頭部に手を回され、そのまま彼女は引き戻されると、
強く唇を塞がれてしまった
ようやく解放された時、強い目眩を覚え頭を振っている彼女の様子を
上司は笑って見る。

「続きは、一眠りした後だ。ったく、徹夜して眠たくて適わん。
それと…刀…」

彼女の手を自分の目の上に載せながら、上司が呟いた。

「続きって…」

最後に「刀」と言ったように聞こえたけれど…。

すぐに寝息が聞こえてきたので、
彼女の問いは保留のまま、となった。

「寝ちゃった……」

 

「お客様、朝餉をお持ちしたのですが、入ってもよろしいでしょうか?」

それからしばらく後、
障子の外から女将の声が聞こえたので、彼女が膝の上で寝ている上司を気にしながら

「どうぞ」と声を掛けた。

「失礼致します…まぁ、まぁ大変」

動けない状態の彼女を見て、女将が苦笑いする。

「朝御飯は、ご無理ですわね」

「いいんです。起きたら食べますから、置いといて下さい」

「それじゃあ冷めてしまいますから一旦、お下げしますわ」

女将は、どこからか丹前を持って来ると、斎藤の肩に掛けてやった。

「すいません」

彼女が礼を言うと、女将は首を振り、斎藤を見つめていた。

「……この方、変わりましたわね」

ぽつり、と呟いた。

「女将さん…部長の事、御存知だったんですか?」

「土方様と何度か主人の刀を見に、いらっしゃってましたから。
刀に関しては、造詣が深いようでしたし…。
失礼なお話ですけれど、
初めてお会いした時、人を寄せつけず、隙などまるで無くて、
本当に刀みたいな鋭い雰囲気を持つ方だな…と、それが第一印象でしたわね。
主人も久しぶりにお会いして、驚いておりましたわ」

「そんなに…?」

「理由は、お客様…貴女だと主人も私も思ってますのよ。
そうでなければ、あんな必死な形相で早朝から押しかけてきたりしませんもの」

自信をお持ちになって…そう言った女将の言葉に
彼女は力なく微笑む。

「自信…ですか。私、何も知らなくて…」

「…私だって未だに、この宿を守っていける自信なんて、
ありませんし。
けど、『宿の女将なんだ』って思っているうちに、
いつの間にかそういう気持ちになって、今の自分がいる…
そういうものです。
愛する主人もおりますしね…って、おのろけになってしまいましたかしら?
あら、こんな時間?長居をしてしまい、申し訳ありません」

そう言って彼女に微笑み、しばし斎藤を見て、
女将は障子を静かに開け、一礼すると開いた時と同様、静かに閉めたのだった。

 

「……ひどい言われようだな」

「起きていたんですか!?」

いつの間に目覚めていたのか、彼女は驚いて寝ていた筈の上司を見下ろす。

「女将が入って来た時の気配でな」

彼女の膝から身を起こすと、眉間を指でつまみ、吐息をつきながら彼は言った。

「少し寝たんで、大分良くなった…。徹夜明けの仕事なんざザラだが、
今回は…いつもと違ったから、大分疲れていたようだ」

おもむろに彼女の手を引き寄せ、人差し指の傷を見る。

「怪我をしたのか?触れていた指が、ざらつく感触だったから、気になった」

「刀で切ってしまって…。そんなに痛まないから、深くはないんです。
……女将さんから聞きました。刀にお詳しいそうですね」

「フン、副社長が何かというと、刀工の出身地だの、
いつ鍛えたものだの、宿の主人じゃなく故意に、俺に聞いて来るんでな。
いろいろと調べていくうちに覚えていっただけだ」

いかにも面白くなさそうに話す上司を見ていて、
再び昨夜会った男の事を彼女は思い出した。

「何だ?」

「い、いえ…もし……もしも、ですよ。
私と良く似た女性に会ったら…部長は、どうします?
顔だけじゃなくて、声も、姿も…性格だって…本当に、そっくりな人と」

「そういうお前は、そんな男に会えば、すぐに心動かされる。
そうじゃないだろうな?」

「えっ!?ええと…」

そんな事ありませんでした、とすぐに彼女は否定出来なかった。

「随分と、歯切れの悪い返事だ」

「わ、私が先に部長に聞いたんですよ!!
でも、部長の事だから…私と似た人に会ったら、
すぐに意地悪しているんでしょうね」

「阿呆…お前だけだ」

「え?」

どういう意味なんだろう?
もしかして…

期待をこめて上司の言葉を待っている彼女に、
ニヤリと、さも狡猾そうな笑みを浮かべる。

「こんなに―――からかい甲斐があって、、虐め甲斐がある奴は、
この世に一人しかいないだろうが。
いくら顔だの、声だの、姿が似ていようが関係ない」

「そ、そんな……」

一気に奈落の底に突き落とされたような気分になり、
がくりと、項垂れる彼女。

「さてと、」

顎に手を掛けられ上を向かされれば、
意外な程に優しい琥珀の双眸が待っていた。

「早速本人で試すとするか…。
寝る前に、続きを…と、約束もしていたしな」

すでに浴衣の帯を緩め始めている。

結局、この人の思うままになってしまうのね…

これも惚れた弱み…というやつなのかしら?

昨夜会ったあの男の人は―――

ふと、考えてみる。

こういう展開に、
きっと溜息吐いて、呆れ顔するだろうな、と彼女は思った。


■ あとがき ■