風の墓標

 

その人は、まるで風の中から現れたようだ…。

雪には、そう思えてならなかった。

 

「明日、どこか遠出でもするか?」

煙草を一つ、箱から取り出しながら、
何気ない口調で斎藤が言った時、
夕餉の支度をしていた雪は、
大きな目を驚きでいっぱいにして、彼を見た。

だが、

「…何だ、その目は?」

すぐに疑いの眼差しに変わった彼女に、
斎藤は尋ねる。

「斎藤さん、またからかっているんじゃないですか?」

「阿呆、行かないならいいぞ。家で、ゆっくり休むさ」

「ま、待ってください!!
冗談じゃなくて、本当に本当なんですか?」

「やれやれ、俺も、つくづく信用がない。
長期という訳にはいかんがな。
せいぜい日帰り出来る範囲で、だ」

普段から多忙な斎藤は家を空けている事が多いので、
彼が告げたその言葉は、
雪にとって、すぐには信じ難いものだったのだ。
しかし、斎藤が事実を言っているのだと分かると、
やはり嬉しさが、こみ上げてきてしまう。

「何処にする?」

満面の笑みで喜ぶ雪。
煙草を吸いながら、斎藤は再度尋ねた。

「ええと…、」

小首をかしげて、雪は、しばらく考えていたが、

「あっ!!それじゃあですね…」

答えを待っている斎藤に向かって出た言葉は…

 

「確かに東京から離れていないが、鎌倉とはな」

鶴岡八幡宮――本宮でのお参りを済ませた後、
下ってきた大石段の脇にある
大銀杏の木を見上げている雪の隣で、斎藤は漏らした。

自分たちの周囲では、大勢の参拝客が
急な階段を上り下りし、行き交う。

「ここじゃない方が良かったですか?」

「…いや。だが何故、選んだ?」

そう聞かれ、雪は戸惑った表情になる。

「特に、理由はないんですけど…。
ふと行きたいな…って思ったんです。
う〜ん、どうしてだろう?」

「昔は…たくさんの侍がいた土地だったな」

侍の世が終わった現在になって、
この場所に来るとはな…と斎藤は皮肉混じりに思う。

侍…武士か…。

「斎藤さん?どうかしましたか?」

「何でもない。他に行きたい場所があるんじゃないのか?」

「はい、これを持って来たんですけど…」

にっこり笑って、持ってきた縮緬の小物入れから、
丁寧に畳んである地図を雪は、取り出した。

「ここから、少し歩くみたいですけどね…」

やれやれ、と斎藤は元気よく階段を下ってゆく雪の後ろに続き、
自らも階段を下りて行った。

 

「流石に『竹寺』と呼ばれる寺だけあるな」

腕を組み、斎藤は周囲を見ている。

しなやかに長く伸びた多くの竹に囲まれて、
広大なその竹林に立った雪は、

「静かで別の世界みたいですね」

感慨した声で言葉を漏らした。

風が吹けば、葉音がさわさわと響き、
少しずつ上へと視線を移してゆけば、
葉の隙間に日光が、ところどころ差し込んでいる。

「あ、そうだ。私、お抹茶もらってきますね。
斎藤さんは、ここで待っていて下さい。すぐに戻りますから」

「大丈夫か?」

「もう、子供じゃありませんよっ!!」

そう言って雪は、更に奥へと入って行ったのだが―――

「あれ?」

どうもおかしい…
お抹茶を受け取れる場所はないし、
一度、元来た場所を引き返した筈なんだけど…

まばらにいた自分達と同じく寺を見に来ていた人達も、
今では、誰一人としていなくなっていた。
少し離れた所に、
鮮やかな紅毛氈に覆われた長椅子が置いてあるだけである。

もしかして、斎藤さんが言ってた通りに、なっちゃったんじゃあ…

また風が吹き、彼女の着物の裾が静かに
はためいた時―――

「あんた、迷子か?」

「きゃあぁぁ〜!!!」

気配もなく、いきなり背後から低い男の声に飛びあがらんばかりに、
びっくりして、雪は大きく悲鳴をあげてしまった。

「そんなに驚かせちまったか?
それにしても、すげぇ声だったな。
耳に響いたぜ」

「…ご、ごめんなさい。
でも、良かった。人が、いたんですね」

胸の動悸はまだ激しかったが、
とりあえず自分以外の人間がいたので、
心細さは、なくなった。

雪が振り返り、その男の顔を見た時、とても驚いた。
非常に端正な顔立ちである。
この人なら、役者でも通じるだろうな…と雪は思ってしまった。

その男は、耳に手を当てながら、
長椅子に座るところだった。

雪が更に気になったのは、その男が
どこか外国の軍服のような洋装をしていて、
かなり良く似合っている事である。

一体、どこから来たのだろう?

見つめていると、
どうした?と男は片眉を上げ、
無言で問いかけるような表情を返してきたので、彼女は口を開いた。

「私、お抹茶を取りに来たんですけど、
その場所が、なかなか見つからなくて…。
どうやら迷ったみたいです」

「見たところ、歩き疲れもあるんじゃねぇか?
少し座っていったら、どうだ?」

男は自分の隣に軽く手を載せ、彼女に勧めた。

「え?い、いえ…連れもいることですし、
早く戻らないと…」

「あんな奴、いくらでも待たせときゃいいんだよ」

あんな奴?

「斎藤さん…いえ、ええと…藤田さんを御存知なんですか?」

雪は、いつも呼んでる名前で言ってしまったが、
あわてて『藤田さん』に言い直した。
目の前の男が仕事のつきあいならば、
彼の前では『藤田五郎』を名乗っているだろうと思ったからだ。

「あいつ、また名前変えたんだってな。
これで何度目だ?
そうかといって、無口で無愛想なのは昔から変わらねぇ」

どうやらかなり以前からの知り合いのようである。

呆れたように笑う男を見ているうちに、
幾分、警戒心も薄らいだ雪は、そっと近づいてゆき、
その男の隣に座った。

「あの…斎藤さんとは長いおつきあいなんですか?」

「そうさな、生まれつきって訳じゃねぇが。
時期でいうなら、非常に短かかったな。
だが、つきあう時間は短くても、
それで全てが推し量れるものじゃねぇ。
まぁ、そんなもんだ」

「…そうなんですか?」

言っている意味が何となく分かるような、分からないような?

顔を前に向けると、竹の中に小さな石仏が立っているのに
雪は気づいた。

一体、どのくらい昔から誰が何を祈って、立てたものだろう?

そう考えていると…

「この地は―――」

隣の男を見れば、足を組み右手の肘を立て、
手のひらに顎をのせた姿勢で、
同じように前方を見ていた。

「大勢の人間の魂や欲望や怨念が眠っているって
言う話だぜ。時たま、それが現れて、
生きてる人間を惑わせるってな」

そう言った後、男は視線だけで雪を見、
ふっ、と笑った。

「怖がらせたか?」

「い、いいえ…。でも、それなら…」

何の慰めにもならないかもしれないけれど…

両手を合わせて、雪は目を閉じる。
しばしの間、鎮魂の為に祈っていた。

「ああ、今日は風が気持ち良い日だな」

目を開いたと同時に、男がそう言った。

「きっと、あんたの祈りが届いたんだぜ。
風が、その返礼かもしれねぇ」

男は目を細めて、
風にそよいでいる前髪をかきあげる。

「さて、と。そろそろ行ってみるか」

ぽん、と自らの膝を叩き、男は勢いよく立ち上がった。

「俺も皆が待ってる所に帰らねぇと…」

「待って下さい!!
斎藤さんのお知り合いなら、ぜひ会っていって下さい。
もしかして、待っている人達の中にも、
斎藤さんを知ってる方がいるかもしれませんし。
斎藤さんだって、きっと喜ぶと思います」

「知ってる奴なら、大勢いるぜ」

「だったら…」

「あんた、心底あいつに惚れてるんだな?
そんなに必死になって」

引き止めようと懸命になってる雪に、
男は、からかったが、
真剣な彼女を見つめているうちに、
苦笑いし、目を伏せた。

「いや、やっぱり今は止めておく。
もうしばらくは会わねぇ方が良いだろう」

「それじゃあ、お名前を教えて下さい。
何か伝えて欲しい事とかありませんか?」

「伝言か。そうさなぁ…」

男は、しばらくの間、
上を見上げ、何事か考えているようだった。
やがて――雪に向かって微笑った。

「見届けろ――。
それだけ伝えてくれ。
ああ、待ちきれず迎えに来ちまったようだ…じゃあな」

刹那、強い風が竹林を駆けめぐり、
葉擦れの音が大きく響き渡る。

雪の目には映っていた。
男が向かう先に、浅葱色の隊服を着た男達が
こちらを見ている。

風が止んだ時には、
すでに、彼らの姿は全て消えていた。

 

「いつまでたっても、戻らないと探しに来てみたが、
こんな所にいたのか?」

顔を上げると、いつの間に来たのか
斎藤が立っていた。

「斎藤さん…」

溜息を吐きながら、雪が腰かけている椅子の
傍らに立つ。

「どうした?」

すぐに、雪の異変の気づいたようだった。

「斎藤さんが辿って来た道の途中で、
男の人に会いませんでしたか?」

「男?」

「さっきまで、ここで話をしていたんです。
その人、軍服みたいな洋装をしてて、
昔から斎藤さんを知っているって言ってました。
すごく面立ちの整った人で…。
斎藤さんが何度も名前を変えてる事も知っていましたし。
皆が待ってるからって、帰っちゃったんですけど…。
その待っている人達は、ほとんどが浅葱色の…」

「何か言ってなかったか?」

全て、理解したのだろう。
竹林を見つめ、斎藤は独り言のように呟いた。

「『見届けろ』
それだけ伝えて欲しいって…
その人は言ってました」

この明治の世の行く末を――

「ったく、傍観する気か」

雪は立ち上がると、
斎藤の前に立って、彼を見つめる。
琥珀の目は、ひどく懐かしそうに
遠くを眺めていた。

「斎藤さん」

名を呼ばれ、雪を見下ろすと、
彼女は微笑む。

「いつかまた会えるといいですね」

「…何年先になるか分からんがな」

 

さわさわと、また風がそよぎ、葉音をたてた。


 

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