紺屋桜小町
1
白い布を樽に静かに落としてゆけば、
ゆっくりと藍が染みて、染まってゆく。
今日は、どんな藍になるだろう?
樽から出した白布は、すっかり藍色を帯び、
すばやく何度も水洗いし、
一通りの作業を終え干した時だった。
「終わったのか?雪乃」
いきなり声を掛けられ、声がした方に顔を向ければ、
男が柱にもたれて、立っている。
彼女の一連の作業を見ていたのだ。
「土方さん!!いつこっちに帰って来たんですか?」
「何、今し方着いたばかりだ。
総司も一緒だぜ。ちょっと用事があるとかで、
すぐに出て行っちまったけどな」
柱から身体を起こし、雪乃の前に立つ。
「それで、親方は、お元気でした?」
「ああ、心配ねぇ。全く、いきなり紺屋職人の足を洗って、
隠居するなんざ言い出して、お前に全て任せた…だもんな。
勝手な話だ…」
雪乃は、親方からその事を告げられた時の事を思い出し、
困ったような笑いを口元に浮かべた。
「だが、弟子のお前に託したってのも、間違いじゃねぇ。
お前の紺屋職人としての腕は、女だてらに相当なものだと
巷でも持ちきりだぜ。
『桜小町』なんて名もついてるそうじゃねぇか」
「そんな…私なんて親方に比べたら、まだまだです!!」
慌てて首を振る雪乃。
謙遜するこたぁねぇ…と言いながら、土方は彼女の白い指先が
藍色に染まっているのを目を細めて見た。
「まぁ、お前の事は親方に、うるせぇくらい頼まれて来たからな。
俺や総司を兄変わりだと思って、頼りにしてくれていいんだぜ」
「はい、ありがとうございます」
「ところでよ…雪乃。
時に話は変わるんだが、お前…好きな男とか、いねぇのか?
親方も心配してたぜ」
唐突な土方の質問に、すぐさま雪乃が、ぽっと顔を赤らめたのが、
答えを物語っていた。
「…いるのかよ」
いささか複雑な思いがしないでもないが、土方が訊けば、
「え、ええと…それは…」
ごにょごにょと、束の間言葉を濁したものの、
「はい、います」と、はっきり頷いた。
「随分な惚れ具合じゃねぇか?
近所の男か?それとも職人仲間の一人か?」
「いえ、違います」
「違う?…じゃあ一体…」
言いかけて、土方は、はっとする。
もしや…
「雪乃、お前の気持ちは、ありがてぇと思ってるぜ。
しかし、俺もお前の兄変わりとして責任もあるしな…。
だが、どうしてもってなら…」
頭を掻きながら、土方が真剣な眼差しで語っていたが、
「用心棒なんです、その人」
雪乃が微笑んで言った。
「用心棒だぁ!?誰だ、その野郎はっ!!」
間違っても自分ではない。
厄介な事になりそうだ…
内心、舌打ちしつつ、つい問いつめるような口調になる土方。
「……数日前の事なんです」
ますます顔を赤らめて、雪乃は語り始めた。
得意先である店に品を届けようと、手にいっぱいの荷を抱えて、
雪乃は歩いていた。
すぐ近くだから、大丈夫…と、職人仲間の手伝いを断り、
一人で店を出て来たのだ。
しかし、自分で思っていたよりも視界は荷で遮られてしまい、
足元もおぼつかず、ふらふらしつつ、ゆっくりと歩いていた。
ところが、辻にさしかかった際、
鬼ごっこをしていた子どもの一人が角を曲がって来て、
勢いよく雪乃に、ぶつかり、
その反動で彼女の体勢が前のめりに
なってしまった。
思わず両目を瞑って、
地面との衝撃を待ったが、いつまでもそれは来ない。
あれ?
目を開ければ、彼女を荷物ごと支えてくれる腕があるのに気づいた。
「そんなに荷を持ってるからだ、阿呆」
頭上で低い声がした。
ごめんなさい、とぶつかって来た子供は頭を下げて、
また走り出し、行ってしまう。
今の出来事に雪乃は、呆然としていたが、
あっという間に持っていた全ての荷を
取り上げられ、我にかえった。
「何処に行く?」
着流しに二本差しを指した男が背を向けて目の前に立っている。
ようやく、この人に助けられたのだと理解した。
振り向こうともせず男は訊ねてきた。
「えっ!?あの…相模屋さんへ…」
「ついて来い」
すたすたと男は歩き始めたので、慌てて雪乃は後を追ってゆく。
背が高くて姿勢が良い人だな…
歩きながら、後ろ姿を見ていて彼女は考えていた。
ほどなく「相模屋」の前に着き、再び彼女の手に荷が戻された時、
初めて男の顔をまともに見ることが出来た。
いかつい顔は無表情で眼光が鋭い…目は深い琥珀色だ。
あまりにも、じっと見ていたので、
おかしく思ったのであろう
男が眉を寄せたので、
慌てて礼の言葉を口にする。
「本当に…どうもありがとうございました。
お陰で助かりました。
あの…お名前は?」
男は、しばし黙っていた。
どうしたんだろう?
あまりにも顔を見ていたせいで、
気を悪くさせてしまったんだろうか?と
雪乃が不安になった時、
男の視線が自分の手に注がれている事に
気づいた。
「紺屋の職人か?」
両手が真っ青に染まってしまっているのを見て、
不快になったんだろうか?
「はい」
小さく頷く。
「そそっかしい奴だ、もう転ぶなよ」
男は、それだけ言い残すと、
早々と人混みに紛れて見えなくなってしまった。
皮肉な笑みと琥珀の双眸が雪乃の心に焼きついたまま、
離れなかった。
「………それで周りの人達に手伝ってもらって、
高利貸しをしてるお店『山田屋』さんの用心棒をしている
『斎藤さん』て人なんだと分かったんです」
雪乃が嬉しそうに報告する一方、
土方は渋い顔で
溜息を吐く。
「よせ」
「え?」
「よせって言ってんだよ。
身元も知れねぇ奴に惚れるなんざ、駄目だ。
『山田屋』だって評判のよくねぇ店だしな」
「ど、どうしてですか!?」
「用心棒稼業なんざしてる奴はな、
大抵過去に後ろ暗い事して来た奴等ばかりだ。
もしかして人を斬った事だって、あるかもしれねぇだろ?
世間知らずのお前には、相応しくねぇんだよ」
「そんな…だって斎藤さん…いい人でしたよ」
「いい人?
フン、お前を助けたのも、ただの気まぐれだったかも
しれねぇじゃねぇか。
で、その後は会えたのかよ?」
それは…と雪乃の表情が翳ってゆく。
「山田屋さんに御礼の菓子折持って行ったんですけど、
お店の店先で、門前払いされるばかりで…」
わざわざ店に菓子折まで持って行ったのか…
土方は彼女の無垢さに半ば呆れつつ、
「ほらみろ、最初から何とも思っちゃいねぇって証拠だ。
お前の事、覚えてるなら出て来て顔ぐらい出すだろうよ。
雪乃、お前には、ふさわしい男がいくらでもいると思うぜ。
悪い事は言わねぇ…諦めろ」
「……分かりました」
雪乃は、俯きがちに、そう答えるしかなかった。
「土方さん」
「何だよ?」
それから数日が経ち、
雪乃の職人仲間である一人の男が、土方を訪ねて来た。
「いえね、雪乃さんの事なんですが、
三日ばかり仕事を休んでいるんですよ」
「何?どこか身体の具合でも悪いのか?」
「どうやら飯もロクに食ってねぇし、
夜も寝てねぇみたいです」
「ふうん」
一体、どうしたんだ?
雪乃の所へ後で訪ねてみる…、
土方は、そう言って男を帰した後、
「おい、総司…てめぇはまた菓子ばかり食いやがって。
今の聞いてたろう、どう思う?」
傍らで茶を飲み、大福を頬張っている幼なじみの沖田に
話しかけた。
「分からないですかねぇ、土方さんは」
「いつも思うんだけどよ、
何で、お前は、そんな偉そうな口調で言ってんだ?
ああ、それより早く言ってみろ!!」
「『斎藤さん』の一件に決まってるじゃないですか。
話は概ね聞きましたけど、あれじゃあ雪乃さんが可哀想だ。
彼女が心から想った相手をあんな言い方されたら、
誰だって落ち込みますよ」
「斎藤の件だぁ!?まだ諦めてねぇのかよ?」
「雪乃さんは純粋ですからね。
好きになった相手を一途に思い詰めているんじゃないですか?
ましてや、初めて惚れた相手ですよ。
だけど、兄変わりである土方さんにも恩があるから逆らえない。
それじゃあ、板挟みじゃないですか」
悟りきってる沖田の言い方が、どうにも気にくわないが、
睨みつつ、ぶっきらぼうな口調で土方は聞いてみた。
「だったら、どうしろってんだよ?」
「嘘も方便で、
『会わせてやる』とか、
『俺が何とかする』
…とでも言っておけば
良いんですよ。
雪乃さんだって、馬鹿じゃない。
叶わぬ相手をいつまでも想っていても仕様がない…って事で、
目が醒めて、いつかは諦めますよ。
その時こそ…私の出番です」
もうひとつの大福に手を伸ばす。
「お前、何言ってんの?
何で、お前の出番なんだよ?」
ふふ、と沖田は大福を一口食べて、
満足そうに飲み込み、茶をすする。
「私が悲しみにくれる雪乃さんの肩でも抱いて、
優しい言葉で慰めてあげるんです。
沖田さん、何て優しい人なんだろう…って、なるでしょう?」
「何、一人で勝手に盛り上がってるんだ、てめぇはっ!?
最後の方はともかく、
そんな事を言っておけば良いんだな?」
土方が念を押せば、沖田が残りの大福を頬張って、
良いんです、と頷いた。
「おい、雪乃、起きてるか?入るぞ」
店にやって来て、
彼女の部屋の襖を開けた土方が入った時、
寝間着の衿を正しながら、
雪乃が布団から起き上がった。
布団の傍らに土方は腰かけると、腕組みする。
「…ご心配おかけして、すいません」
泣き腫らしたのだろう、彼女の目は赤い。
「ったく、お前は…。
ロクに飯も食ってねぇのか?」
「……ご飯を見てると斎藤さんの顔が見えちゃって、
こんなご飯食べられない…って思って。
今度は寝ようと、横になって天井を見ていると、
また斎藤さんの顔が見えて来て…」
「ごちゃごちゃと悩みやがって。
お前の取り柄は、いつも前向きな事だろう?
どこに行った?」
「だって…」
ぽろぽろと彼女の瞳から、涙がこぼれて泣き出す始末。
土方は額に手を当て、嘆息する。
「あぁ、もう泣くな。
ますます目が腫れちまうぞ。
そんなに悩むんなら…会えば良いじゃねぇか?
相手は商品なんだぜ」
「えっ!?会えるんですか?」
いきなり身を乗り出して来て、真剣な表情の彼女に、
些か土方は圧倒されつつも、
ああ、と頷いた。
恋とは、こんなに女を変えるものなんだろうか?
「どうやって…?」
「銭さえ払えば良いんだよ」
「お金…?いくらです?」
「腕の立つ用心棒だからな…。
はした金じゃ相手にされねぇだろうぜ。
まぁ、五両もありゃ足りるとは思うが」
「ご、五両!?」
かなりの大金である。
「何だよ?値を聞いたら、諦める気になったか?」
土方にとっては、その方が好都合だ。
「あ、諦めませんっ!!
でも…五両なんてお金…私に貯められますか?
お店のお金の事は、土方さんにお任せしてるし」
「貯められるぜ。
お前は腕の良い職人だからな。
なりふりかまわず働けば一年で稼げる」
「一年……一所懸命働けば…
そうすれば斎藤さんに会えるんですね!?」
訊ねているようで、雪乃自身を納得させる言葉にも、
土方には聞こえた。
「……あ、ああ。
俺がお前に嘘を吐いた事、あったか?」
「一度も、ありません。
一年働けば…斎藤さんに会える…。
寝てる場合じゃありません!!
土方さん、私、働きますっ!!」
雪乃は急いで布団を畳むと、
力をつけようと食べ物を取る為に、
台所へと階段を下りて行った。
「立ち直りが、早すぎねぇか?
恋は盲目ってのは…本当なんだな」
彼女の変わりように、今度は完全に圧倒され、
呆然と、土方は呟いた。
「こんちは、土方さん」
「今度は、どうしたんだ?」
再び職人仲間の男が、
手紙を書いていた土方の所へやって来た。
「雪乃さんなんですがね、元気になって
『一年過ぎたら斎藤さんに会える』って、
働きながら口癖のようにしばらくの間、
口に出してましたけど、
ぴたりと言わなくなっちゃったんですよ」
ちょうど書き終えたところで、土方は筆を置く。
「あれだけうるせぇぐらいに言ってたのにな。
おい総司、今回はどうしたと思う?」
やはり片手に菓子を持ちつつ、
黄表紙を読んでいた沖田に土方は、
話しかけてみる。
「それはですね、
ようやく雪乃さんも諦めがついたって事ですよ。
…もうそろそろ、私の出番ですかねぇ?
どんな台詞で、口説こうかな?」
「だからくだらねぇ事言ってんじゃねぇ!!
ほっといて良いのか?」
沖田が頷くのを見、
ほっといて良いとよ、と職人に土方は告げて、
話は、そのままになった。
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