紺屋桜小町
2
光陰矢の如し──
早々と一年が過ぎたある日、
土方の住まいに雪乃が訪ねて来た。
「どうした?あらたまって…」
茶を持って来てくれた沖田に礼を言った後、
雪乃は口を開く。
「いえ、お店を一日お休みしようかと思うんです。
今の時期なら忙しくないし…
それで、あの…お金の事なんですけど、
全て土方さんにお任せしていますから、
いくらぐらい貯まったのかなぁ…と思いまして」
「全然休まず店を開けていたしな。
大した働きぶりだ、桜小町さんよ。
…実は夕べ算盤弾いて勘定出したんだ。
聞いて驚け、七両二分貯まっていたぜ」
「七両二分も…ですか!?」
「ああ、よく貯めたな、雪乃。
…こんな時に言うのもなんだが、
この先も一所懸命働いて、稼いで、
もう一軒、紺屋の店を出したらどうだ?
そのうちの職人仲間の一人と、お前が夫婦になって、
ますます店を盛り立てていきな。
親方だって、
お前の身の振り方を心配してるんだぜ。
この先も俺や総司は、お前を見守っていくからよ」
「ありがとうございます」
手をついて、雪乃が深々とお辞儀をする。
だが、すぐに顔を上げ、
彼女は言った。
「ところで、そのうちの五両を使いたいんですけど」
「…お前、俺の話を何も聞いてなかったのかよ!?
感動的に話をまとめたってのに…
一体、何に使うんだよ?」
「別に…良いじゃないですか…何に使ったって」
笑って、誤魔化そうとする雪乃に、
土方は眉をひそめる。
「良くねぇよ…金の使い途を言えねぇようじゃ、
一文だって出す気はねぇぞ」
「え…?だ、だって…私が稼いだお金なんですよ」
「いくらお前の金だろうと、出せねぇもんは、出せねぇんだよ」
「そんなっ!!
私が一所懸命働いたお金なのに、好きに使えないんですか!?」
「そうだよ。駄目なもんは、駄目だ」
とりつく島もない土方に、
「それじゃあ、要りませんっ!!」
雪乃は言い放つ。
「ほう、要らねぇ?金は必要ないんだな?」
土方は意地悪く笑い、
「総司、良かったな、銭が入ったぞ。
のんびり箱根にでも、湯治に行くか?」
「誰が『差し上げます』って言いました!?」
「今、お前が言ったじゃねぇか」
いくら口論しても土方に適わない…
ぎゅっと唇を噛み、上目づかいで涙を溜めて、
精一杯睨む雪乃に土方は苦笑いする。
「お前が稼いだ銭を俺が使う訳ねぇだろ?
何に使うか言ってみろよ。
それによっちゃ出してやる。
親方だって、同じ事言うと思うぜ」
「…さいとうさんをかうんですよ」
親に怒られ、むくれた子どものような口調で、
雪乃が呟いた。
だが、よく聞き取れず土方は繰り返す。
「『砂糖買う?』
…お前、いくら甘い物が好きだからって、
五両分の砂糖を買うなんざ…
太っちまうぞ」
「斎藤さんを買うんですよっ!!」
今度は、はっきりと雪乃は声に出した。
「どうすんだ、総司っ!!
全然、諦めてなかったじゃねぇか!?」
「さぁ…ねぇ?」
土方が沖田に怒鳴っても、
彼は、肩をすくめただけである。
「何、他人事のような返事してんだよっ!!」
「私は知りませんよ。土方さんが会わせるって
言ったんでしょう?
約束通り、会わせてあげなくちゃ」
「張り倒すぞ、てめぇ!!」
こいつと責任の擦り合いをしてても始まらない…
土方が雪乃を見れば、
期待と信頼を込めた視線を自分に注いでいる。
どうすりゃいいんだ、全く…。
「おい、雪乃。
本当に斎藤に会う気か?」
「はい。斎藤さんに会えるんですよね?」
ためらいもなく雪乃は、きっぱりと返事をする。
「あれは…あれはな…嘘だ」
土方の一言に絶句し、
大きな瞳に、みるみる涙を溜めてゆく雪乃。
「泣くなっ!!
総司、てめぇは笑ってんじゃねぇっ!!」
土方は頭が痛くなってきた。
「あのよ…」
しばらく考えた末、雪乃に声を掛けた。
「あれだけお前が働いた銭を一気に使う気があんのか?
本当にそれで良いのか、雪乃?」
「はいっ!!」
真っ直ぐに土方を見る瞳に、何の迷いもなかった。
「…いけませんか?土方さん」
おそるおそる訊ねる雪乃に、
「そんな訳ねぇよ!!
寧ろ大好きだぜ。
それでこそ、江戸っ子らしいじゃねぇか!!
…だがよ、肝心の斎藤をどうやって雇うってのが…
誰か知り合いとかいねぇかなぁ?」
「いますよ、伊東さんが」
沖田の口から出てきた名前を聞いた途端、
土方の表情は不機嫌になってゆく。
「…何で、そんな名が出て来るんだよ?」
名前を口にするのも汚らわしい…という顔で、
沖田を睨む土方。
「伊東さんなら、知り合い多いでしょうしね。
きっと大喜びで、土方さんの力になってくれますよ」
「止めろっ!!
あの野郎になんざ、死んでも借りなんざ作りたくねぇんだよっ」
「雪乃さんの為でしょう?
この際、つまらない事は忘れて…あ、丁度良い所に、
伊東さんが歩いて来ましたよ。
呼んで来ます」
にんまり笑って、
「伊東さ〜んっ!!!」
と呼びながら、
すばやく沖田は外へと駆け出して行った。
「総司っ、てめっ!!」
うんざりと頭を抱える土方に雪乃は、
大丈夫ですか?と
心配そうに訊ねた。
「土方君が、私に用事とは…珍しい事もあるものですねぇ…」
ほどなく家に入って来た伊東という男は、
雪乃の想像と遙かに違っていた。
土方は、ますます眉間に皺を寄せている。
品の良い顔立ちで、これまた品の良い着物を纏い、
色白な男で、手には白い扇子を持っていた。
物腰や態度も丁寧な男だ。
「話の内容は沖田君から聞きましたがね…
お金があっても…雪乃さんが紺屋職人のままだと、
あちらさんは気にも掛けないでしょうね」
「何だよ、お前さんでも出来ねぇんだな。
それじゃあ話は終わりだ。
とっとと、帰ってくれ」
その方が、せいせいする…
こいつが帰った後、塩をまいておくか…
内心呟きながら、土方が追い出そうとするのを
まぁ、お待ちなさい、と、伊東は持っていた扇子を
ぽん、と手の平で打つ。
「雪乃さんが紺屋職人であるなら…の話です。
さる大店の娘に護衛を…という話にしてしまえば、
どうです?」
「身元をでっちあげて、
それで上手く行く保証は、あるんだろうな?」
土方が、口調荒げに問えば、
伊東は意味ありげに笑う。
「他ならぬ土方君のお頼みとあらば、
最善を尽くしますよ」
けっ、と舌打ちする土方を横目に、
今度は雪乃に伊東は視線を移す。
「あとは雪乃さんの格好を、どこからどう見ても
大店の娘に見えるよう、身なりを整えて…。
雪乃さん、斎藤さんとやらには、会いたいんですよね?」
「はい、すぐにでも」
頬を赤らめつつ、雪乃は頷く。
「そうですか、それじゃあ今晩にしましょう」
「おい、待てよ。今晩て…随分、急な話じゃねぇか」
土方が口を出せば、
「土方君も無粋ですね…。
こういう事はね、早い方が良いんです。
会いたい気持ちが募るという想いは、
まさに恋のなせるわざですしねぇ…」
何、言ってやがんだ、この野郎…
気障ったらしい台詞を口先三寸で紡ぎ出す伊東のこういう所が、
嫌いなうちの一つなんだよ…と土方は思った。
さっきから総司が脇で、
くすくす笑っているのも気にくわないが…。
「では、夕刻にまた来ますよ…」
そう告げると、伊東は帰って行った。
その後、
「雪乃ちゃん、駄目だよ。
そんな帯の結び方じゃあ…。
大店のお嬢さんなら、もっと綺麗に派手目に結わえてるよ。
貸してみな」
「雪乃ちゃん、髪型も変えなくちゃいけないよ。
そうだ、お化粧もしておこうかね」
「あ、うなじも剃っておこう…」
「頑張るんだよ、雪乃ちゃん!!」
話を聞いて感動した近所のおかみさん連中が
どんどん店にやって来て、
雪乃の準備を次から次へと整えてくれたのである。