「何だ、この書類は?やり直せ」

「は?」

バサッと机の上に投げ出された書類の束を驚いて見た後で、机の前に立つ上司を
不思議そうに見上げる。

「でも、私・・・」

ちらりと自分の腕時計で時刻を確認する仕草をし、

「今日は用事があるので帰りたいと…数時間前に伝えましたが・・・」

「至急の資料だ。とっとと、直せ」

それだけ言うと、自分の部屋へと引き上げていく上司の後ろ姿を見ながら
歯ぎしりしたい気持ちを 何とか抑えるのに、
持っていたボールペンを折れそうなくらい強く握り締める。

この資料は全然、急ぎなんかじゃないわよ!!

彼の秘書になってから、すでに半年は経っている。
その間に仕事にも大分慣れてきたので、
資料整理くらいは出来るようになっては、いるのだ。
ましてや、急を要する資料なのか、そうでないのかも・・・。

それにしても今日の彼は変だ、と思う。

もしかして・・・昼間の件から?

唇にボールペンの端を押しつけて、ぼんやりと思いふけってみる。

学生時代の親しかった友人が久しぶりにこちらに出て来るので、
食事の約束を携帯電話で、していた時だった。
ちょうど部屋から出て来た上司が眉間に皺を寄せドアに寄りかかり、
腕組みをし電話が終わるまで彼女の様子をずっと見ている。

「今は、休憩時間中ですので・・・」

なんとなくばつの悪い思いを感じながら言うと、

「随分楽しそうだったな。男か?」

冷ややかな目と、どこか皮肉も混じっている口調で
尋ねてきたので、

「え?ええ、まぁ・・・」

と歯切れは悪いが、当たり障りのない返事を返した。

間違いではない。
恋人ではなく、ただの友人なのだけど…

「チッ」

舌打ちが聞こえたような感じがしたが、それきり彼は何も言わずに部屋を出て行った。


「失礼します。資料の件、終わりました」

大急ぎで資料の直しを終わらせノックをし、
上司の部屋へと入って行くと、
こめかみに指を当てて顔を俯かせている彼の姿に驚いて目を見開く。

「部長、お加減が悪いんですか?」

「ああ・・・」

「熱、出てます?」

「ある。額を触ってみればいい」

触れって…

何も言えず、ただ相手を見つめ返すだけでいると、

「触ってみろ」

彼女は、おっかなびっくり彼の額にかかる前髪をよけて、そっと手を当てた。

「…熱なんか、ないみたいですけど」

「あると言ったら、ある」

眉間に皺を寄せて黙り込む上司を見て、具合も機嫌も相当悪そうだ、と彼女は判断した。

「とりあえずタクシー呼びます。送って行きますから」

「大丈夫なのか?」

何の事かと、一瞬彼女は考えたが、
ようやく彼の言っている意味が分かり、 

「ああ、少しぐらいなら遅れても怒る人じゃありませんから」

と微笑んだ。

「フン、寛大な男なんだな」

言葉と口調が全然噛み合っていないし…
つくづく皮肉を言わなきゃ、気が済まないの?この人は…!?

内心溜息を吐きながら、タクシーを呼ぶ為に受話器を上げた。


タクシーの後部座席に座ってからというもの、
軽く背もたれに体を預け、
ずっと目を閉じ続けている上司の横顔を彼女は隣で見ていた。
外の夜景でも見ていようと何度か目をそらすのだが、
気づけば彼の顔に戻ってきてしまう。

「何を見ている?」

鋭い琥珀の双眸が、いつの間にか自分に向けられていた。
二人の視線が合う。
彼女は、頬が熱くなるのを感じた。

「い、いえ。具合、大丈夫ですか?」

頷いただけで、再び目を閉じた上司に、ほっと心の中で安堵の吐息をついた。

上司のマンションにタクシーが到着すると、

「悪いが荷物を持って来てくれ」

彼女が一言も言わぬうちに、自分は、さっさと降りて行ってしまう上司。
遅れた彼女は、タクシーを帰し、
隣に残されたブリーフケースを持ち、仕方なく後に従う意外、なかった。

エレベーターに乗ってる間は、無言だった。

下に広がる夜景を無表情に見ている上司。
何か話題を…と考える彼女だが、結局、何も言い出せなかった。
目的の階に着くと、さっきと同じように、
素早く降りて、自分の部屋へと向かう上司の後をまたしても彼女は着いて行くしかない。
カードキーでドアを開け、

「そこに置いてくれ」

無造作に上着を脱ぎ、ソファに放り出しながら、ネクタイを緩め、シャツのボタンをはずし始める。

「お、お邪魔します」

彼女は、部屋の中へと入ってブリーフケースをテーブルに置いた。
シンプルというか、殺風景な部屋だな、と思った。
花とか観葉植物とか置けば、雰囲気も変わるのに…。

「それじゃあ、私は、これで失礼します、お大事に…」

ドアを開けようとしたが、脇から長い手が伸びてきて
ドアの取っ手を押さえつける。

振り返ると、金色を帯びた琥珀の目が冷ややかに光っていた。


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