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全身を目で撫でられているような視線に感覚がざわめき出していく。
「騙し…たんですか?」
「そうだ」
一段と低い声で肯定し、彼の指が彼女の唇に触れ、ゆっくりと這わせる。
はっ、と身を引き、真っ赤になった彼女を見て、口端に笑みを浮かべた。
「わ、私…約束が、ありますから…」
折良く、携帯の着信音が鳴り、画面には待っている友人の名が出ている。
願ってもないタイミングとばかりに、慌てて携帯に出た。
「もしもし…ごめんなさい。
今から、すぐ─」
いきなり携帯を取り上げられしまい、変わって上司が話し出すのを、
あっけに、とられて見る。
「今、取り込み中だ。それと今夜の貴様との約束は、キャンセルする」
それだけ言うと、完全に携帯の電源を切ってしまった。
「…あ、あなたに、こんな事する権利はない筈です」
「ほう?」
目を細めるや、彼女の顎に手を掛け、そのまま上向きにする。
逃げ出したくても、ドアと彼の身体に挟まれているこの状況では、
どうする事も出来ない。
「思えば、何だかんだと、下手な理由をつけては、かわしていたな。
食事に誘えば、他の部署の奴も一緒に、と連れて来るし、
残業で遅くなった時は、
送って行くと言おうものなら、
すばやく帰宅していた…」
「……それは、」
事実だった。
理由は…怖かったから…
目の前で圧倒的な威圧感を放つ彼が─
極力、こういう状況にならないよう、ただの上司と秘書にすぎない関係を保つよう
努めてきたのだ。
避け続けて・・・現在まで。
「もう少し様子見でも、しておくつもりだったが気が変わった。
男が出来るのを、みすみす指銜えて、見てるような性分では、ないんでな」
「彼は…」
この際、はっきり誤解を解いておこうと言いかけた彼女の言葉を阻むかのように、
唇が塞がれた。
くぐもったうめき声は言葉同様、唇によってかき消され、
もがこうとする彼女の身体ごと、力によって押さえ込まれてしまう。
次第に深くなってゆくキスに、抵抗は薄れていき、目眩を感じて、ついに瞳は閉じられた。
ようやく離れた唇は、今度は彼女の首筋へと移動し、這わせ始める。
力を失った身体はドアに、もたせまま、ぼんやりとした意識の中で、その感触だけを感じていた。
「鼓動が速いぞ。そういう、そそられる表情もするんだな」
間近で見る琥珀から目を逸らせない。
「こんな事…間違って──」
瞳に映された自分自身の影が、この人にも見ているのだろうか?
…私と同じように。
「…そうかもな」
彼女の手を取り、わずかに身をかがめ手首に口付ける。
「だが、全てが正しいなんて事も、ないだろうが…」
自嘲混じりの声が静かに響いた。
シャワーの音が聞こえ、だんだんと覚醒してゆく意識に合わせるかのように、
彼女の瞳は開いていった。
気怠い思いで身体を起こし、ふと自分の体中に散らばる赤い跡を見た途端、
全てを思い出し、一気に頬が赤くなる。
自分の名を呼ぶ低い声
身体の重みと熱と─
どんな顔をして会えばいいんだろう?
そう思うと、いてもたってもいられず、彼女はベッドの下に散らばる自分の服を着込み、
部屋の主が戻らないうちに、そこから飛び出した。
「逃げたか…」
もぬけの空のベッドを見下ろしながら、溜息をつき、ソファに腰掛ける。
ふと視界に入った、ある物に気付くと、微かに苦笑が漏れた。
「とんだシンデレラだな」
忘れ物は、ガラスの靴ではないが…
彼女の携帯電話を眺めながら、煙草をケースから取り出し、火をつけ、紫煙を燻らす。
「阿呆が、誰が逃がすか」
前髪を掻き上げながら、誰ともなしに呟いた。
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