恐怖に息を飲んだ彼女は本能的に、その場から離れようとしたが、
すかさず壁に叩きつけた上司の腕によって逃げ道は完全に絶たれた。

「また逃げ出すつもりか?…全く、一体何度逃げれば気が済む?
いつも逃げてばかりで向き合おうともしないのは、誰なんだ?」

冷ややかに光る双眸は彼女の頬を伝わる涙を見る。

「手に入れたから、用済みになる?今朝の俺の態度で、はっきり分かったから放っておけ?
……阿呆が、何も分かっていない。
それが容易に出来たら、とっくに、そうしている」

それでも離れようとする彼女に、ついに焦れた上司は舌打ちし、
彼女の両手首を掴むと壁に体ごと押しつけ完全に動きを封じてしまった。
冷たく見下ろしていたが、彼女が痛みに荒い息を吐き震えているのに気づくと、
序々に力を弱め…一瞬、瞳を閉じる。

「今朝…」

彼女は耳を疑った。
それまでの激しかった口調とは全く違う声だ。

「あんな風に振る舞ったのは反応を見ていたんだよ。……それと、」

そこまで言うと口を閉ざし、しばらくの間、静寂が部屋を覆う。
上司の言葉の続きを待っていたが返事がないので、ついに彼女は自ら口を開いた。

「………それと、何ですか?」

深い吐息を吐いて、上司は続きを話し出す。

「口では何と言おうと無理矢理奪ったのは事実だ。
脅えた顔で俺を見る度に自己嫌悪を覚えていた…」

「………」

「もう少し待つつもりだったが、例の奴の存在を知って平静を装うのが困難になった。
自分に、そこまでの威力があるとは、思いもしないだろう?」

彼の言う通りだ。

「どうしても手に入れたい、体だけでも…
最初は、それだけで充分だと、そう思っていた。
だが、抱いてみても何か満たされないと、すぐ気づいた。
フン、実際、全くの考え違いだった事に気づかされた。
心も…要するに、全てが欲しいと、そう切望していたんだよ。
手放すなんざ、出来なかった」

だが、性急すぎて随分と嫌われてしまったようだがな、
自嘲気に笑うと、掴んでいた彼女の手首に赤く残った跡を軽く親指でなぞり、
眺めていた。

すまなかった…

小さく呟き、送って行く、と彼女から離れる。

考えるより先に、背を向けた上司の手を掴み、止めていた。
訝しげに彼が振り返る。
彼女は静かな瞳で上司をまっすぐに見上げる。

「私は…怖かったんです」

「俺の事が、だろう?」

彼女は束の間、俯くが、やがて顔を上げた。

「…昨夜、あの後で、これからどんな風にあなたと顔を合わせればいいか…。
今まで通りに…なんて、出来ませんでした」

「充分、そう見えたが」

「じゃあ、私なりの虚勢を張るのが多少なりとも成功していたんでしょうね。
それまでは上司と部下の関係を保っていたのに、
いきなり、あんな事になってしまって…
怖くて、脅えて、かなりの……恥ずかしさもありました」

「俺が触れると逃げ出したくなる程、嫌で堪らなくなるんじゃないのか?」

「いいえ…それは、違います。むしろ…」

嬉しかった…みたいです。

そう言って頬を赤く染めた彼女の言葉を聞いた時、上司は息を呑んだ。

「…リスクが大きいと分かっていても、欲しかった。
他の男に、攫われちまう前にな。だが、後悔はしていない」

「彼は恋人なんかじゃないと…」

彼女が異議を唱えると、上司は思い出したのか吐息を吐いた。

「ああ、車の中で、そう言ってたな。
嘘じゃない…そう分かって拍子抜けしたのと…嬉しさも…あったか」

「一人で誤解していたんでしょう?」

彼女が、からかうように言うと、「フン」と顔を背けてしまったが−
伸びてきた両手が彼の頬を包んで、元へと戻す。
最初は傷ついた頬に口づけし、やがて唇を重ねて来た時、
驚きに目を見開いたが、すぐに力強く上司は抱きしめ返してきた。

ようやく唇が離れると、彼女は火照った頬を上司のスーツに押し当てる。
しばらくしてから、彼女が、くすくす笑い出したので、眉を寄せ見下ろした。

「どうした?」

「いえ…名言だな、と思ったんです」

彼女は、道化師の恋人達を指差す。

解説の一番下には、

『愛されないということは不運であり、愛さないということは不幸である』

そう書かれてあった。


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