「着いたぞ」

車が止まり、上司がすぐにドアを開け外へと出る。
しばらく迷っていた彼女も戸惑ったまま、降りた。
すかさず背中に廻された手に驚いた表情で上司を見上げたが、彼は前を向いたままだ。
彼女も視線を同じくすると、白い二階建ての家が建ち二人はその門の前に立っていた。
軽く背を押され促されるまま門をくぐり、家へと足を踏み入れる。
玄関の扉の脇には、「Garally」というブロンズの看板が吊り下げられていた。

一体、どういうつもりなの…?

家は、玄関からして、かなりの広さだった。
彼女が、ますます分からなくなっていると、

「お待ちしておりました。オーナーから聞いております。どうぞこちらへ」

いかにも品の良さそうな老婦人が奥から出迎え、丁寧に挨拶をすますと
螺旋階段を昇り、二人を案内する。
二階の広い廊下を歩いて行くと、つきあたりのドアを開けた。
ライトのスイッチを押すと暗闇だった部屋全体が煌々と照らされ、
彼女は部屋に一歩入った途端、息をのんだ。

『コメディア・デラルテ   イタリア喜劇の道化師達』

洒落たデザインの説明板が置かれてあり、広いフロアにはタイトル通り道化師達の絵画が
何枚も壁に飾られていた。

「ごゆっくりご覧下さい。下に、おりますので」

そう二人に告げ、老婦人は一階へと戻って行ったのだった。

「……こういうの、お好きなんですか?」

「絵なんぞ、分かるか」

興味なさそうな口調。

彼の言う通り、事実なのだろう。
窓際へと歩いて行き、壁にもたれて腕組みし、上司は彼女をまっすぐに見つめた。

「それじゃあ、どうして?」

「好きなんだろう?履歴書に趣味が絵画鑑賞、そう書いてあった。
折良く、知り合いが、いたんでな」

それじゃあ、私の為に?
同時に昼間、総務部の桂木という女性の言葉を思い出していた。

『秘書を選定する時、あなたの写真を見た斎藤部長が押しの一手でね。決まっちゃった訳』

訳も分からず連れて来られたものの、やはり絵を見れる事は彼女にとって、嬉しい。

あの琥珀には見られる度に自分は落ち着かない気分にさせられる。
気づかれないように、彼女は絵を見る為にくるり、と背を向けた。
道化師達は、それぞれ仮面をつけているが、絵の精巧さに彼らが自分達を
見ているかのように感じられる程だ。
いつの間にか熱心に絵を見ていた彼女だったが…

「やたら、ひっついている、そいつらは何だ?」

彼女がその絵の前に立ったところで、窓際から声が掛かった。

「アルレッキーノとコロンビーナです」

振り向いて彼女は答える。

「名前があるのか。どんな意味がある?」

「ここに説明が書いてありますけど…」

興味がないのに、なぜ聞いてくるのだろう?

「いいから、さっさと説明しろ」

威圧高な、いつもの上司らしい態度に彼女は仕方なく、説明書きを横目で見ながら説明を始めることにする。

「コメディア・デラルテというのは、イタリアの古典仮面劇で、
登場人物が大体決まっていて、言動も、どこの地方の出身なのかも、あらかじめ
決まっているそうです」

もたれていた壁から身を起こすと、上司は静かに近づいて来た。
彼女は、はっとして無意識に後ろへと下がり始める。

「ア、アルレッキーノはコメディア・デラルテの中で一番有名な人物で、
ずる賢くて道化役の召使いで、それから、人気者で機敏なんです」

「女の方は?」

近づいて来る上司に恐れと─

「コロンビーナは小間使いの女性で天真爛漫な性格で…」

「二人の関係は?」

壁際まで彼女を追い詰めると、俯く彼女に一層低い声で先を促す。
彼女は上司を見つめた。

「恋人です」

「そうか」

唇を重ねようとする間際…

「…どうして?」

彼女からこぼれた言葉に上司は静止した。
その顔からは、感情を窺い知る事は出来なかったが、彼女はそのまま続ける。

「あなたが…何を考えて、昨夜…私に、ああいう事をしたのか…
けれど、今朝はまるで何もなかったかのように、振る舞って…」

部屋に飾られている道化師達が視界に入って来る。
面白がって事の成り行きを見ているかのようだ…。

もしかしたら、この部屋での一番の道化は自分なのかもしれない。

「手に入れてしまえば、ご満足して後は用済みになるんじゃありません?
あなたが私を秘書に選んだのは、そういう理由からだったんですか?
雇うのも、首にするのも選択出来るのは、上司のあなたですものね。
今朝の態度で、はっきりと、分かりましたから。
…だから…必要ないなら、私の事は放っておいて下さい!!」

支離滅裂に心の中に鬱積していたものを彼女は一気に吐露する。

「……何と言おうが昨夜は拒まなかった」

「やめて…下さい」

容赦ない言葉に昨夜から混乱し続け、張りつめていた緊張の糸が切れる。

「俺に抱かれて、満足したんだろう?」

「…っ、お願いですから、触らないで!!」

自分の頬が濡れているのに、上司の指先が触れるまで気づかなかった。
すっかり動揺した彼女は、払いのけようする。
しかし、自分の手が勢いあまって彼の頬を強く掠り、
指に嵌めていた指輪によって傷が出来てしまった。
滲んだ血が一筋に流れ出してゆく。

「……あ」

上司は頬に手を当て、指についた血を見ていたが−

「フン、」

口元に笑みが浮かべる。
一瞬で、全身を凍りつかせるには充分な程、強く光る金色の瞳で。



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