Scene1
その日――─
朝から始まった会議から、ようやく解放された斎藤は、
喫茶室に足を運んでいた。
社内には社員食堂の他に、ゆっくりと、くつろげる喫茶室も
別にある。
普段は、休憩など取ることもせず、すぐに仕事に入り、
滅多に行くことがないのだが、今日は、どういう訳か来ている。
入口に立った時、腕時計を見た斎藤は、彼特有の口端に皮肉気な笑みを
浮かべた。
「流石に、こんな時間じゃ、誰もいないな」
午後2時30分をまわったところだった。
社員のほとんどは、昼食をすませ、それぞれの仕事へと戻っている。
セルフサービスのコーヒーメーカーの脇に備えてある白い陶器の
コーヒーカップを取ると、コーヒーを注いだ。
白い湯気とコーヒーの匂いが漂う。
来客が多い会社なのだが、紙コップでは味気がないので、
陶器製のコーヒーカップと上質のコーヒー豆を使っているのは、
社長の方針なのだとか。
カップを持って手近の席に腰を下ろした斎藤は、
しばし窓から見える高層ビルに目を向けていたが、
やがて胸ポケットから煙草を取り出し、火を点けようとした間際─
爽やかな香水の香りが自分の席の脇を通り過ぎた。
面を上げれば、女がコーヒーカップを手に持ち、
窓際の席に着くところだった。
見慣れない顔だ、と斎藤は思った。
尤も、数百人もいる社員全員の顔を覚えてるとは言えないが…。
社外の人間かもしれない。
女はコーヒーカップを両手で包み込んで、しばらくの間
斎藤と同じように外の景色に視線を向けていたが、
ひとつ大きな溜息と共に、がっくりと肩を落とした。
「全くもう、どうしよう!!!
どうしてあそこで、ああいう答え方しちゃったんだろう?」
何が、『どうしよう』なんだ?
煙草をふかし、呆れながら斎藤は女の様子を眺めていた。
他にすることもなかった、というだけだが…。
仕事で失敗でも、やらかしたか…気の毒に。
………気の毒?
普段、他人の事など必要以上に干渉しない主義の斎藤が
自分の頭をよぎった考えに眉を寄せる。
頭を抱え込んで、傍目にもわかるぐらい落ち込んでいた女だったが、
数分後─うなだれていた頭が、ぱっと上がり
斎藤は何が起きたのか?と更に眉を寄せた。
「でも、前に進むしかないのよね。
次こそは、絶対に大丈夫、大丈夫!!」
何だ、この変わり様は?
落ち込んでいたかと思ったら、もう立ち直って、一人納得したらしく、
大きく頷くと少し冷めただろうコーヒーを美味しそうに飲み始めた。
灰皿を見下ろせば、ほとんど吸わないまま、
短くなってしまった煙草を見、斎藤は軽く舌打ちする。
すっかりあの女に気を取られすぎていた。
コーヒーを飲み終えた女は、満足気に両手を上げ、伸びをした後、
立ち上がり、カップを持って入って来た通りに戻ろうと、
くるり、と振り返った。
目が合った。
どうやら落ち込んでいたせいで斎藤に全く気づかず、
自分以外の誰も、この場所にはいないと思い込んでいたらしい。
すぐに真っ赤になって、軽く会釈をしながら、急ぎ足で斎藤の席の脇を通り過ぎて行った。
女が見えなくなるまで、斎藤は目で追っていたのだった。
新たに煙草を取り出すと、火を点け、ふう、と煙を吐く。
立ち直りが早いというか、喜怒哀楽が、はっきりしている女だ、と
そう思った。
夕方、斎藤が総務部に行った時、
「丁度良いところに来てくださいました、斎藤部長」
長年勤めている女性が声を掛けてきたので、振り返った。
名札を見れば『桂木』と書いてある。
「何の用だ?」
「部長の新しい秘書希望の女性の履歴書、後でお持ちします。
今、まとめているところなんですが、もう大変で」
机の上には片付けられていない履歴書の山を示した。
「美人揃いですわ」
「ったく、こんなにいるのか?」
こっちは、仕事さえしてくれれば、どうでもいい事だ…
そう考えたが、ふと、一枚の履歴書に斎藤の目が止まった。
「今日も何人か面接に来たんですよ。
社内だけじゃなく外部から新たに採用しようと…斎藤部長?」
いつもの彼らしくなく、熱心に履歴書を見ている斎藤の様子に
桂木が訝しげに声を掛けた。
喫茶室での一件を思い出しながら、斎藤は口を開いていた。
「こいつで、いい」
「え?」
見ていた履歴書を手渡され、桂木は面食らっている。
「すぐ電話して、明日から出勤するよう言っておけ。
これだけの人数選ぶのに、あとどれだけかかる?
無駄な時間を割くな。
それと、俺の秘書なんだから、独断で決めても支障はない筈だ」
「でも、斎藤部長…」
「責任は俺にあるからな」
部屋を出て行った斎藤を見送り、しばらく呆然としていた桂木は、
ようやく我に返り、改めて渡された履歴書を見下ろしていたが…
ふっ、と笑みを浮かべた。
「…何だか、面白くなりそう」
それから半年以上、過ぎた。
「失礼します、斎藤部長。
先日、頼まれておりました書類をお持ちしました」
桂木が部署へ入って行くと斎藤は煙草を吸い、書類を見たまま、
「そこに置いてくれ」と告げる。
「それはそうと…さっき部長の秘書の方が…」
秘書の名が出た途端、鋭く目を上げた斎藤に桂木は、表面上、
さりげなさを装っていたが、内心は悪魔のような笑みを浮かべていた。
「土方副社長と、ご一緒に帰られたようですわ。
あの様子じゃ、無理矢理連れ去られたって感じが──」
舌打ちし、阿呆が、と呟きながら斎藤は立ち上がり、
帰り支度を始め出した。
「急用が出来た。悪いが、この部屋の鍵を頼みたい」
「了解しました」
一人になった部屋で桂木は、しばらく肩を震わせていたが、
やがてこらえきれなくなり、目に涙を浮かべながら、大声で笑い出した。
「全く、あの部長がねぇ…あの子も愛されているんだから…」
「あの…副社長。本当に困るんです。私、大切な約束がありまして…」
「つれねぇ事、言うんじゃねぇよ。大方、斎藤と食事でもする約束でも
してたのか?」
「え!?い、いえ…そんな事は…」
図星である。
鋭く尋ねてきた土方に彼女は、ごまかそうと努めて笑顔を見せたが、
彼にはお見通しのようで、全く通用していないらしい。
「それに、もう店の中にいるんだしよ」
落ち着いた雰囲気のショットバーのカウンターに座らさせられ、
肘をついて彼女を見ている土方の端正な顔に、
身近で見ると、つくづくハンサムな人だ、と彼女は思った。
さっきから、まじまじと、見つめられているので、
彼女にしてみれば、どうにも落ち着かないのである。
「心配しなくても、襲いかかったりは、しねぇよ……ここじゃ、な」
……最後の一言は一体?
目を大きく見開く彼女に、ニッと土方は妖しく笑いかけた後、
「まぁ、いい。とにかく何か頼むことにしようぜ。
俺は、ジン・トニックで。…好きなカクテルは、あるか?」
「いえ、私はお酒は、あまり飲みませんので」
「へぇ、どっかの奴はウワバミ並みなんだがな。
『シンデレラ』にでも、しとくか?」
「シンデレラ?」
「オレンジ、レモン、パイナップルのそれぞれのジュースを
混ぜたものだ」
それなら飲みやすいかもしれない。
こくん、と彼女は頷いた。
バーテンに注文した後、土方はネクタイを少し緩め、
上着のポケットから煙草を取り出し、
「吸ってもいいか?」と尋ねてきた。
些か彼女は驚きながらも、どうぞ、と返事をする。
意外に女性に対する気遣いがある性格らしい。
顔を傾け、ライターで火を点け、一口吸った後…
「あいつが勝手に決めちまった秘書…
まぁ、あんたの事なんだが、一体、どういう女なんだ?と
俺なりに以前から興味があった。
仕事は出来る奴だが、プライベートの事なんざ、一切、口に出さない。
何考えてるんだか、分からねぇ…そう、思ってる輩も多いだろうしよ」
彼女は黙って、土方の話を聞いている。
「気にくわねぇのは、
あいつが存外、女性社員に人気があるって事だ。
昼間に、社内食堂で、ほとんど蕎麦しか食わねぇ…
蕎麦が好きらしい、と知った女性社員は、出張先で、
土産に蕎麦を買って来ては、我先に、とばかりに
奴に蕎麦を届けているみたいだしよ…」
それで、お土産は蕎麦が多いのか…
彼女は、くすりと笑った。
「普段、無口のクセに何でモテるんだか…」
「でも、副社長だって、よりどりみどり、だと思いますが」
「そんなの当たり前じゃねぇか」
前髪を掻き上げる副社長を脇目で見ながら、
否定は、しないのね…よほどの自信家なのだろうと、彼女は思った。
「来たな」
お待たせしました、とバーテンが静かにカクテルを二つ置き、
去って行った。
「乾杯」
カチン、と土方がグラスを合わせ、飲み干した。
彼女は一口飲んで、
「美味しい…」と微笑み、一杯目を空けたが─
「こういう展開は、予想してなかったし、初めてだぜ」
脇で、寝てしまった彼女を見ながら、
土方は呟いていた。
「ったく、無防備な寝顔、晒しすぎだ」
カクテルを口に含み、目を伏せる。
「こんなんじゃあ、すぐ他の男に、かっさらわれちまうぜ。
なぁ、斎藤」
「そいつらの中には、あんたも入っているんですか?」
土方は振り返り、斎藤を見上げる。
斎藤は彼女の寝顔を見下ろした後、溜息をつき、
身をかがめて、静かに彼女を抱き上げた。
斎藤が背を向け、帰ろうとした間際、土方が口を開き
彼に声を掛けるのだった。
「もう少し遅かったら、完全に食っちまってたぜ。
せいぜい気をつけるこったな」
「間に合って良かったですよ。
こういう冗談は、今日限りで、終いにして戴きたいものです」
「あんなに慌てたツラも、するんだな」
微かに土方は笑みを浮かべる。
彼女の携帯の電源は、この店に入る時、規則だ、と嘘ぶいて、
切らせておいたし、勿論、土方自身のも切っておいた。
見つけ出すのに、遅いどころか、早すぎたくらいだ。
「別のをお作りしましょうか?」
空になったグラスを見て、バーテンが聞いてきたので、
頷きかけた土方だったが、すぐに思い直した。
「いや、いい。今夜は、ずっと同じにしておいてくれ」
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