眉間を指でつまんで、斎藤は双眸を閉じた。
昨夜は、ほとんど寝ていない。
原因は…あの女、だ。
香りも声も仕草…何もかも、全て覚えている。
昨日出会った自分を見て、どういう反応を示すか興味もある。
いつも以上に煙草の数が多いな、と灰皿を見ながら、
斎藤が思っていた時、
部屋のノックがし、総務部の桂木が入って来た。
「失礼します。斎藤部長、お連れしました」
連れてきた女を促し、
これから先、上司となる斎藤を彼女に紹介する。
間違いなく昨日の女だった。
女は、深く一礼し、顔を上げると微笑んで、言った。
「初めまして、斎藤部長。どうぞよろしくお願いします」
「…………初めまして、だと?」
え?と自分は何か気に障る事を言ってしまったのか?というような顔で、
斎藤を見ている。
その場の雰囲気を察したのか、桂木が助け船を出した。
「あ、あら?斎藤部長の事、ご存知でしたの?」
「いいえ…」
そう言って申し訳なさそうに一層、微笑んで答えた。
「一度もお会いした事は…」
……昨日の今日だぞ…
すると、あの時、俺の事は全く眼中になかったと?
斎藤は机上に置いてあったファイルを一瞥し、それを掴んで、
ばさり、と放り投げた刹那、二人の女性は固まった。
「今日中に、これを入力し、細かく整理しておけ。それが初仕事だ」
15センチ以上はあるファイルを見て、
信じられない、という表情になり、
それまで浮かべていた笑みなど、彼女からは跡形もなくなってしまった。
強張った顔のまま、女は上司を見上げる。
ニヤリと嗤い、更に拍車をかけた口調で斎藤は挑発した。
「何だ、これくらい出来ないようじゃ、俺の秘書など、到底、務まらんぞ」
「…分かりました。早速、仕事に取りかかります」
後悔先に立たず──
印象最悪の上司、決定だな。
斎藤は、強く自分を睨みつける彼女の瞳に魅入ってしまった事など、
極力考えないようにした。
目を開いた時、かつて見たことがある天井だ、と思った。
自分はこの場所に来たことがある。
以前に…──それじゃあ、ここは…
記憶が鮮明になった時、彼女は起き上がろうとしたが…
身動きが取れない。
よく見れば、誰かの腕が自分の体にきつく絡みついている。
私…抱きしめられて?
体を強張らせた気配で、察したらしい。
「起きたのか?この酔っぱらいが…」
声の聞こえた方に頭を上げると、
鮮やかな琥珀が間近にあったので、息を飲んでしまった。
「部長…、どうして?」
離れようとしたが、一向に腕の力を抜いてくれる気配がないので、
腕の中に閉じこめられた状態だった。
彼女は上司の顔を見つめる事しか出来ない。
「どうして?食事の約束をすっぽかしたのは、誰だ?」
「そ、それは…そうだ!!私ったら、土方副社長の前で、
寝てしまったんですね。どんな顔して、会えばいいのか…」
自己嫌悪に顔を覆う彼女に斎藤は目を細める。
「随分、気に入られたようだしな」
ふいに立ち上がり、彼女から離れると、キャビネットに置いてあった
煙草を手に取った。
「え?」
彼女は身体を起こして戸惑いの表情で見上げる。
斎藤は煙草をふかしながら、冷たく一瞥し言い放った。
「近いうち副社長専属の秘書になる辞令が出るかもしれんぞ」
「…っ、勝手な事ばかり言わないで下さいっ!!
確かに今日は私にも一因があるでしょうが、
そんな意地悪、言うなんて…」
溢れて出て来た涙を悔しそうに拭うと、ベッドから降りる。
「帰ります。お手間おかけして、すいませんでした」
「相変わらず、逃げ出すその癖、
改善したほうが、いいんじゃないのか?」
「部長のその性格は一生、直しようもないんだわ。
でも案外…土方副社長の方が、お優しいかもしれませんわね。
だったら、私は喜んで…」
言い過ぎた、と気づくには遅すぎた。
強く腕を引かれ、あっという間に、ベッドへ押し戻されていた。
「止めて下さいっ!!
いつもそうやって、力で、ねじ伏せようとして…」
彼の前では、どうしても自分は無力なのだ。
涙を含んで、悔しそうに見上げた彼女の瞳が、
斎藤を見た瞬間、驚きに揺らぐ。
「俺が、そう容易く手放すと思っているのか?」
伏した双眸に深い陰りと寂しさ…があった。
「え…?」
「ったく、ガキじゃあるまいし。
成長しない自分に呆れるし、つくづく嫌気がさす。
お前に男が現れるたびに、俺は──」
そこで言葉を切り、双眸を伏せた。
……こういう人なのだ。
時間をかけて少しずつ分かりあって──そうすれば…
彼女は彼の手を取ると、自分の唇へ持っていき、
柔らかく噛んだ。
その様子を斎藤は目を細めて見る。
「誘っているのか?」
「仕返し…です」
やがて背に手を回し、囁く。
「私は、どこにも行きませんから…大丈夫…です」
その言葉を聞いた途端、斎藤は口端を上げ、
どこか懐かしそうな笑みを浮かべた。
「ああ…そうだったな」
そう言うと、瞳を閉じている彼女の唇を塞ぐ為に、
身を屈めた。