帳簿をつけてた番頭が面を上げると、
ちょうど暖簾を潜り、土方歳三が入って来たところだった。
腰を上げた番頭が寄って行くと、
来店の旨を伝えられたので、
心得てます、と頷き、すぐに店の主人を呼びに行った。

座敷に案内され、胡座で台の上に肘をつく格好で
土方は待っていた。
ここに座って、
床の間に飾られた大小の日本刀を見ているのが、好きだった。

「何で商人なのに、刀持ってやがるんだ?」

主人の趣味なのだから仕方がない。
文句を言いつつ、出された冷えた麦茶を一口飲んでいると、
早々と店の主がやって来た。

「ああ、歳さん。よく来てくれたね」

土方の向かい側に座り、主人は挨拶をした。

「何度か使いを貰ってたが、
ここのところ、いろいろあって忙しくてな。
…で、あの野郎…じゃなかった…あ〜、若旦那の具合は、どうなんだ?」

主人は気落ちしているのであろう。
疲れたような笑顔で、

「ああ、それがどうにも…弱ったよ」

「弱った?そうか…」

一旦、土方は目を伏せ、言葉を切る。

「じゃあ葬儀屋や寺に、もう手筈は済んだのか?」
…と、もっともらしく尋ねた。

「おい、倅はまだ死んじゃあいないよ!!」

それを聞くや、
むっ、となり、しかめ面で主が抗議する。

「ああ?まだ死んでねぇのか…そうか…ふぅん…ちっ、何だよ」

「『何だよ』とは、何だい!?
おまけに今、舌打ちまでしなかったかい?
…とにかく、倅なんだがね、どんなお医者さまに診せても分からず終いで、
ほとほと困り果てていたんだが、数日前に診せたお医者さまは
違っていた。それがどうも…気の病だと言うんだよ」

主人は自分の麦茶に口をつけ、
一時、喉を潤すと、再び話し始める。

「何か心に思い詰めた事があって、それを叶えてやれさえすれば
病は良くなるが、放っておけば、ますます重くなってしまうそうだ。
そこで昨夜、私と母親と番頭さんとで、悩み事を訊きだそうと
したんだがねぇ…これが一向に口を開かないんだ。
じゃあ誰になら話すんだ?と問い質してみたところ、
幼馴染みの歳さん、お前さんになら打ち明けてもいい…と、
こういう訳だよ。
なぁ、歳さん。どうか倅の悩みを訊き出してもらえないかね?」

「ふうん…そういう事だったのかい。
……いいぜ、任せな。早速行って来てやる。
俺が行って、それでも口を割らねぇってなら、
どんな手使ってでも、吐かせてやるからよ」

土方が立ち上がり、
両指の関節を鳴せば、主は慌てたように言った。

「おいおい、うちの倅にあまり乱暴な事しないでおくれよ。
お医者さまが、今の状態では五日しか保たないと
言われているんだからね。
耳元で、大声なんて出されると困ってしまうよ。
優しく丁寧に扱っておくれ」

「ああ、分かったよ」

と、了解したが…

「ったく、面倒くせぇ…。大体、過保護すぎんだよ。
だからあいつは昔っから、甘やかされてる
ひ弱野郎なんだ」

若旦那が寝ている離れの場所に行く途中の
長い廊下を歩きながら、
独り文句をたれるのだった。
離れに着くや、勢いよく土方は戸を開けた。

「おい、バカ旦那っ、バカ旦那っ!!!
てめぇは、いつまでも何悩んで、寝てやがるんだっ!?
しっかりしろってんだよっ」

土方の大声に、被っていた布団をめくって、
すっかり憔悴しきった若旦那が顔を出した。

「お…お…大きな声を出しちゃ…いけないよぉ…歳さん」

息も絶え絶えのその状態を見て、土方は溜息を吐く。

「……やっぱり葬儀屋に行った方が早ぇな。
おい、親も店の者もみんな心配してるんだぜ。
てめぇの病名が、まるっきし分からねぇって言うじゃねぇか。
一体、何なんだよ?」

「…い、医者には分からなくてもね…あたしには…分かっているよ」

「そんじゃあ、てめぇが医者になった方が早いじゃねぇか。
何をそんなに悩んでいるんだよ?話してみな」

「うん…誰にも言わないでおこうと…思ったんだけど…
歳さんになら…と思って…。でも…」

若旦那はためらい、ぼそっと呟いた。

「歳さん…笑うかもしれない…」

「ああ?人の病の原因を聞いて、それを笑う奴がいるかよ。
早く言いな」

「本当に…?笑わないかい?笑われたら、あたしはもう…恥ずかしくて…」

「分かった、分かった。笑わねぇ」

「…そう言ってても…あたしが言ったら…ふふふ、やっぱり…笑うだろうなぁ…
うふふふふ」

「てめぇが笑ってんだろうが!!
まどろっこしい事言ってねぇで、さっさと言いやがれっ!!」

焦れた土方が怒鳴ると、
若旦那は布団からゆっくりと起き上がり、
ちらりと土方を見て、

「…あたしの病はね…その…あのね………こいわずらい

「あ?」

語尾が曖昧で、よく聞こえなかったので、
問い返す土方に、若旦那は先程よりは、少し大きく、
しかし、やはり、か細い声で、

「恋患い」

…と言った。

「恋患いだぁ〜!?ぶっはっはっはっ」

「ほらぁ〜、やっぱり笑ったじゃないか」

肩を震わせ、大爆笑する土方に若旦那は、
半ば泣き顔になって、非難する。

「ああ、すまねぇ…勘弁しろ」

「笑いすぎだよ…歳さん」

ようやく笑いを収めた後で、土方は再び若旦那に尋ねた。

「しかし、恋患いだったとはなぁ…。
今時、めずらしいぜ。その病になっちまったなんて。
一体、どこで背負い込んで来たんだよ?」

その時を思い出すように、若旦那は、遠い目になる。

「…今から……一月ほど前にね…上野の清水さんにお参りに行ったんだよ。
清水さんは高台にあってね…見晴らしがよくてさ…いい気持ちだった」

「ああ、あそこは下に弁天の池が見えるし、
向が岡、湯島の天神、神田の明神、左側には、
聖天の森に待乳山なんて…眺めは良いんだよな。
そういや清水のそばの茶店で一服したのか?
渋い茶に羊羹が出てきて、あそこの羊羹は、えらい旨いと
甘党の総司が太鼓判押してたぞ。いくつ食った?」

「…羊羹の話を…してるんじゃない…よ。
あたしが、そこで一休みしているとね…年頃十七、八のお嬢さんが、
お供の女中を三人連れて、やって来て、
あたしの目の前に座ったんだ。
そのお嬢さんの顔がね…」

「のっぺらぼうだったのか?」

「違うよぉ…水の垂れるような人だった」

うっとりとなる若旦那に土方は眉をひそめる。

「何だ、そりゃ?
『水が垂れる?』
…じゃあ、豆腐をつぶしたような顔だったんだな。
哀れなもんだぜ」

「そうじゃないよ…きれいな女の人の事を
『水の垂れるような』と、言うんだよ」

「へぇ…いい女の事をそんな風に言うとはな。
けっ、知らなかったぜ」

眉を寄せ腕組みする土方に、若旦那は弱々しく溜息をひとつ吐き、
再び、話し始める。

「あんまりきれいなお嬢さんなんでね、あたしが
じーっと見ていると、お嬢さんもあたしの事をじーっと見ていた。
しばらく過ぎるとお嬢さんが立ち上がって、
膝の上に置いていた茶袱紗が落ちたのにも気づかず、
行ってしまうところだったんだ。
あたしは慌てて、それを拾って…」

「そりゃ儲かったな。茶袱紗だったら高ぇだろうに?
売って来たのか?」

「とんでもない、そんな事はしないよ。
後を追いかけて行って、お嬢さんに渡すとね…顔を赤らめて、
小さい声で丁寧に、礼を言ったんだ。
それから女中に持たせていた包みから短冊を取り出して、
さらさらと歌を書かれて、あたしにくれて行ってしまったんだ。
それがね…これなんだ」

大事そうに短冊を懐から取り出すと、

「『瀬をはやみ岩にせかるる滝川の』………うっ、うっ、うっ」

そう詠むと、肩を震わせ若旦那が突然、泣き出す。

「何も泣くこたぁねぇじゃねぇか。
…『瀬をはやみ岩にせかるる滝川の…』?
ふぅん、随分と中途半端な俳句だな」

「俳句じゃないよ。都々逸でもないからね。
これは百人一首にもある崇徳院さまの有名なお歌で、
下の句が『割れても末に逢はむとぞ思ふ』なんだ。
今はここでお別れしても、末には夫婦になりましょうという歌なんだよ」

短冊を撫でながら、若旦那は夢見るように、

「その歌をもらって帰ってきたけど…それからというもの、
何を見ても、あのお嬢さんの顔に見えて仕様がないんだ。
掛け軸のだるまさんがお嬢さんに見える。
花瓶がお嬢さんに見える。鉄瓶がお嬢さんに見える。
ほら、歳さんの顔まで…お嬢さんに…」

「やめろっ!!寄って来るんじゃねぇ!!!
……しかし、そこまで思い詰めてたとはなぁ…。
じゃあ、その娘と一緒になれりゃあ、お前の病は
治るんだな?
ったく、仕方ねぇ。大旦那の所へ行って掛け合って来てやるよ。
ああ、その短冊をちょっと貸してみろ。
心配すんな、すぐに返してやるから」

土方が店の主の元に戻って来た。
主は待ちかねた、とばかりに、
早く聞きだそうと身を乗り出してくる。

「歳さん、ご苦労さま。で、どんな事を言ってましたか?
うちの倅は…?」

「ああ、倅の野郎はね」

「何で、お前さんまで、倅と言うんだい!?
とにかく、それで、どうだったんです?」

「何だかよ、一月ほど前に上野の清水さんにお参りに
行ったんだと。
そんで、そばの茶店に入った時に、
渋い茶に羊羹が出て来る。
あそこの羊羹は、えらい旨いと評判で…」

「ああ、分かったよ。
倅は下戸だから、その羊羹が食べたいと言うのかい?」

「いや、羊羹は総司が食いてぇって…」

「誰もそんな事、聞いちゃいないんだよ。何なんだい?」

「そんでよ、若旦那が腰掛けている前に、
お供を三人連れた年頃十七、八の娘がやって来て、
腰を掛けた。
その娘の顔が…豆腐をつぶしたようで…」

「…可哀想な娘さんだねぇ」

「いや、違ったぜ。ほら、いい女の事をよ、言うだろう?
水が…漏れる…?」

「それを言うなら、『水の垂れるような』だろ?」

「『水』は合ってるじゃねぇか」

「いいんだよ、そんな事には拘らなくて。
それから?どうしたんだい?」

不服そうな土方には気にも留めず、主は更に先を促す。

「若旦那がその娘の顔をじっと見ていると、
その娘も若旦那をじっと見ていた。
そのうちその娘が立ち上がり、自分の膝に掛けていた
茶袱紗を忘れて行ったんで、
若旦那はそれを拾うと……売っちまったと思うだろう?」

「そんな事、思わないよ。
倅は、ちゃんと届けてやったんだろう」

「そうなんだ。
後を追いかけて行って、その娘に渡してやると、
顔を赤らめて、小さい声で丁寧に礼を言ってから、
女中に持たせていた包みから短冊を取り出し、
さらさらと歌を書いて、それを若旦那に渡すと
行っちまった。
それがこの短冊だ…。
百人一首の…名前が…すっとこどっこい…だったか?」

「すっとこどっこい?
もしかして崇徳院さまのお歌かい?」

「ああ、そんな名前だったな。
とにかく読んでみてくれ」

短冊を渡された主は、

「何だい、もう…。ええと…『瀬をはやみ岩にせかるる滝川の』」

「中途半端な俳句だと思うだろ?」

「思わないよ。
下の句が『われても末に逢わんとぞ思ふ』だったな」

「やっぱり親子だな。言うことが同じだ」

変に感心する土方である。

「誰でも同じこと言いますよ。しかし、この歌をねぇ…」

「で、これをもらって来てからの若旦那は、
何を見ても、その娘に見えちまうんだと。
やっぱり、かなりの重症だな。
掛け軸のだるまが、その娘。
花瓶が、その娘。鉄瓶が、その娘。
あろう事か俺の顔まで…ああ、嫌な事思い出しちまった…」

若旦那に寄って来られた事を思い出し、土方は、
忘れようと首を振る。

「とにかくその娘と若旦那を娶わせてやれば、
若旦那の病気は治るみたいだぜ」

「ありがとう、よく聞き出してくれたよ、歳さん。
倅がそこまで思いつめるお嬢さんだったら、
何としても、嫁にもらってやろう。
それで?どちらのお嬢さんなんだい?」

「あ?……あぁ、それが………どこだ?」

土方の様子に主が訝しげに、

「…聞いてこなかったのかい?」

「あいつが言わなかったんだよ」

「何故、お嬢さんの名前を聞かなかったんだい?
そこが重要なところじゃないか」

「いや、俺だってそこまで入り込めねぇし」

「ったく、もう誤魔化してないで、素直に謝りなさいよ。
何で聞いてこなかったんだい?」

「……あの野郎は、昔っからそそっかしい奴だったな」

「まだ言うのかい?ほら、早く行って、聞いてらっしゃい!!」

舌打ちし、土方が再び離れにとって返し、
二度目は更に勢いをつけて戸を開ける。

「バカ旦那っ!!おい、バカ旦那っ!!」

「ほらぁ…またそんな大きな声を出して…」

寝ていた若旦那が、むくりと顔を起こす。

「うるせぇ、てめぇの所為で、こっちとら怒られちまったじゃねぇか!!
それより、肝心な事を聞き忘れてたぜ。
どこの娘なんだよ?」

ほう、と一層弱々しく吐息を吐き、若旦那は首を振る。

「………分からないんだよ」

「分からねぇだと?
何だよ、それじゃあ名前や住所も分からねぇってのか?
…ったく、何で聞いとかねぇんだよ!?」

「だって…短冊をもらってね…あたしは嬉しくて…夢見心地で…
聞けず終いだった」

「仕様がねぇ奴だな。
他人ばかりに頼ってないで、その娘の所にでも
押しかけて行って、押し倒してくりゃいいんだよっ!!」

「どこのお嬢さんか…分からないんだって…。
それに…歳さんじゃないんだから…そんな事…出来や…しないよ…」

「………どういう意味だ?ああ?
しかし、弱ったぜ…大体、その娘もよ、
そんな歌なんざ半分しか書いて渡すより、
短冊に自分の名前と居所ぐらい書いときゃ、
こんな手間かからずに済んだんだよ。
止めとけ、止しときな、そんな娘は…。
自分の名前くらい、礼と一緒に言っていかねぇ女なんざ…
駄目なんだよ。
とにかく止しなっ!!
別のいい女を俺が見つけて来てやる」

「い、嫌だよぉ…あのお嬢さんでなきゃあ…」

泣き崩れた若旦那は土方の手に負えない。
これでは、ますます体にも障り、悪くなる一方なので、
げんなりしながら、

「……おい、分かったよ。
みっともねぇから、泣くな…。とにかく待ってろ」

大旦那の元へ土方は再び戻って来ると、

「今度は、分かったかい?」

「いや…」

「んん?」

「娘に何にも聞けなかったんだと」

「おいおい、どうにも仕様がないねぇ…住所も分からないって?」

「住所も名前すら、だよ。
若旦那は、短冊もらって惚けてるうちに、
何も聞かずに、その娘が行っちまったそうだ」

「弱ったねぇ…どうしよう?」

主人は困り果て、腕を組み、しきりに考えを巡らすのだが、

「もうどうにもならねぇから、
若旦那には、このまま静かに息引き取ってもらうしかねぇよなぁ…」

土方が、きっぱり諦めたように漏らした。

「なっ、なっ!?歳さん、それじゃあ、うちに何しに来たんだいっ!!
…探して来ておくれ」

「は?」

その唐突な言葉に、主人に聞き返す土方。

「その娘さんを探して来るんですよ」

「…探すって…その娘は素性も何にも分からねぇんだぜ?」

「分からないと言ったって、日本人だろ?」

「そりゃ日本人…かもしれねぇが…日本人たって、
えらい沢山いるだろうに」

「頼むよ、後生だよ、倅の為だ。
もし、そのお嬢さんを探し出せたら、
おお、そうだ!!床の間に飾ってある刀をお前さんにやるよ。
前から欲しがっていた備前の太刀だよ。
それから、ツケにしてる借金も棒引きにして、
お菓子一年分もつけよう」

何で菓子が出てくるんだ?

「そりゃありがてぇ話だが…
何しろ雲をつかむような話だしよ…」

「そんな事言わずに、探して来ておくれ。
あ、ちょいと待ってなさいよ」

主は店の者に紙と硯と筆を持って来させると、

『瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ』
したためて、

「さぁ、手懸かりになる歌を紙に書いたからね。
これを持ってっ!!」

主は土方に紙を渡す。

「おい、ちょっと待てって…。
こんなんで探せる訳ねぇって…」

「いいから、探すんだよ!!
お医者さまの話じゃあ、このままじゃ倅の命は、あと五日しかないそうだ。
何が何でもその間に、お嬢さんを探し出すんだよ。
もしも見つけられず、倅に万が一の事があれば…
あたしは、お前さんを倅の仇として討ち果たすからねっ!!」

「冗談じゃねぇ!!何で、そうなるんだよっ!?」

息子の身を案じる親ってのは、何であそこまで
強引になれるものか?…と、
家へと帰る道すがら、土方は頭を抱える。

「一体、何だって俺が倅の仇になるんだよ?
ったく、とんでもねぇ事になっちまった。
とにかく帰って、落ち着いて考えるしかねぇな。
ゆっくりと茶でも飲んで…」

今、帰った、と家の戸を開ければ、

「土方さん、お帰りなさい。お店の御用って、
何だったんですか?」

沖田総司が、ひょいと顔を出した。




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