紺屋桜小町






「ほう…これはこれは…花のさいたようですね」

日が暮れて、迎えに来た伊東が雪乃を見た瞬間、
目を瞠るほどの彼女の出来映えに漏らした一言だった。

文金高島田、小紋縮緬の着物に繻子の帯を締め、
化粧もし、うっすらと唇には紅をさしている。

「当たり前だ。
大急ぎで出来る限りの最高の品を
揃えたんだからな…」
土方が腕組みし、得意気に言う。

「さて、身なりは準備が整いましたが…」

伊東は視線を流し、雪乃の手を見る。

「その指先は、どうにもなりませんねぇ…」

彼女は自分の藍色に染まった指先を、まじまじと眺めた。

「そんなに、いけないでしょうか?
どんなに洗っても落ちなくて…」

「雪乃さんにとっては、紺屋職人の誇りかもしれませんが、
それを見れば、すぐにお里が知れてしまうでしょう。
隠してください」

「え?」

「手を袖に隠しておいて下さい」

「は、はい」

伊東に言われるまま、雪乃は、すぐに手を袖に入れた。

「それと…言葉遣いも…なるべく話さず、小さな声で返事をして。
大店の内気なお嬢さんだと
先方には話してありますので」

それでは斎藤さんと、ろくに話すことも出来ないのかな?

そう心配しつつも、雪乃は、こくりと頷く。

「ここまでお膳立てしたんだ。
雪乃、振られて帰って来るんじゃねぇぞ」

彼らしい慰めの言葉を土方は掛けたのだが、
きょとん、と雪乃は目を丸くして、

「え?雨は降ってませんよ。
でも、念の為、傘を持って行った方が良いんでしょうか?」

「……本当に大丈夫なのかよ?」

 

とっぷりと日は暮れて、提灯を手にした伊東に連れられて、
橋のたもとに近づくにつれ、雪乃は鼓動が速くなった。
提灯を持った人影が先に待っている。
やがて橋に辿りつくと、
斎藤の姿が、はっきりと明かりに浮かび上がった。

「ご苦労様」

伊東が、斎藤に何かを手渡す。
おそらく、五両のお金だろう…と雪乃は思った。

「では、お嬢様を話した料亭まで無事に送り届けてください。
頼みましたよ、斎藤さん。
お嬢様、どうぞお気をつけて…」

意味ありげに言われ、緊張しつつも、
彼女は、こくりと頷く。
伊東と別れ、斎藤が先に歩き始めた。

何だか、あの日に戻ったようだ…

雪乃は歩きながら思い出していた。

道すがら、何も話さず、俯いて、ただ黙って後ろを歩いているだけで…
それだけで、雪乃は心が温かくなっている。

「何故、俺に護衛なんぞ頼んできた?」

思いがけず斎藤が訊ねてきたので、
雪乃は顔を上げてしまった。
だが相手は振り向くことなく、
変わらずに背を向けたままである。

「よほど隠したい事情か…?」

「は、はい…」

余計な事を口には出さず、
この際、言われるままに返事しておこう…と、
よく考えもせず、
小さい声で返事をした。

「成程な…」

どう納得したのか、良く分からないが、
その後、斎藤は一言も話すことなく
道を歩いていくのみだった。

ほどなく料亭の一室に到着し、
雪乃は俯き顔で、袖に手を隠したまま正座をし、
斎藤は障子を少し開き、外を眺めていた。

「誰も追って来る気配もないな…」

追う相手など最初からいる筈もないので、
当たり前なのだが…。
障子を閉めると、斎藤は雪乃を見る。

「俺の仕事は、あんたをここまで送り届ける事だ。
後は相手を待つんだな」

「ま、待って下さいっ!!」

斎藤に向かって、雪乃は呼び止める。
腰を上げ、斎藤の傍らに立つと、精一杯見上げて、
ようやく会う事の出来た男を見つめていた。
言いたい事は、たくさん考えていたのに、
言葉が口から出て来ない。

ふいに斎藤は雪乃の顎に手を掛けると、

「逢い引きの相手が来るのに、俺がいたのでは
きまりが悪いだろう?
育ちの良い大店のお嬢様が、
影では、こういう遊びをしてるとはな…」

違います…
頭を振り、否定しようとしたが動かせず、
ただただ目を瞠り、斎藤を眺めるしかなかった。

「次からは家に、ばれないよう、上手くやる事だ」

身体を離し、襖に手に掛けた斎藤の背に、
軽い衝撃が伝わってきた。
肩越しに振り返れば雪乃が、強くしがみついていた。

「他の人なんか…いません。
…お願いです…このまま朝まで…一緒にいて下さい。
……どうか…」

震えるか細い声が斎藤の背から聞こえてきた。

やはり、このまま拒まれるのだろうか…?
でも、こんな事をして
斎藤さんにとっては、
迷惑でしかないんじゃ…

雪乃の中で
そんな考えが芽生えるうちに、
斎藤を騙しているという事実も重なり、
自分がとても卑怯に思えてきた。

雪乃は、しがみついていた背から離れようと、
顔を上げた時、

「来ないんだな?」

斎藤が見下ろしていた。

他の人などいない…

「あなただけ…なんです」

嘘も偽りもなく、
それだけは真実だ。

身体ごと抱き寄せられて、
唇をもとめられても抗わず、
離れた刹那、
深い想いをこめて斎藤の名を呼ぶ。
行灯の火が消され、
一面の闇が部屋に広がった。

 

目を開けた時、月の光が差し込んでおり、
それまでの記憶にあった闇はない。

斎藤は目を閉じており、
身体を固くして雪乃は、
目の前に眠る男を見ていた。
額にかかる髪をよけてやろう…と布団から手を出そうとしたが、
自分の手の事を思い出し、
ぎゅっと握りしめる。

私は、この人を騙しているんだ…
このまま夜が明けなければいいのに…
ずっと…この時が続けば…

そんな彼女の願いも空しく、一番鳥が鳴き、
うっすらと朝日が昇る頃になって、
斎藤は、すっと起き出し、
傍らにて着物を羽織る音が聞こえていた。

布団の中で、
雪乃が、ぎゅっと目をつむっていると、
煙管に火を点けた斎藤が戻って来た。
目を閉じている彼女を、上からじっと見下ろしながら、
煙管を吹かしていたが、

「随分前から、起きていたな?」

声を掛けてきた。

雪乃は目を開け、
長襦袢の衿を直しながら、
布団から身を起こす。

「次は、いつ会える?」

「…はい」

それっきり彼女は口を開こうとしないので、
再び斎藤は訊ねた。

「次は、いつ雇う気がある?」

また明日にも…そう言いたかったが、
雪乃は瞳を閉じる。
これ以上、嘘を吐き続けられない。

「………一年後に」

声は、わずかに震えていた。

「それは冗談か?
一年後とは、長い話だ。
大店の娘だったら、明日か明後日でも可能だろう?」

「いえ、そうじゃないんです。
一年過ぎないと…駄目なんです。
…お金が…ないんです。
私は大店のお嬢さんなんかじゃなく、
紺屋職人をしている
雪乃と言います」

「俺を騙したのか?」

冷ややかな口調で斎藤が言った。
当然だ…騙されたと知れば誰だって
良い心持ちはしないだろう。
それでも斎藤には知って欲しいという
僅かな願いから、雪乃は話し始める。

「いいえ、そうじゃなくて…どうか終わりまで話を聞いて下さい。
一年前に、私が荷物を持って転びかけた時、
斎藤さんが助けてくれました。
荷物も持って、得意先のお店まで一緒に行ってくれて…
斎藤さんにとっては、ほんの気まぐれでした事かもしれないけど…
好きになったんです。
私の兄変わりの人や周りの人達にも、諦めろ…って言われて、
自分でも忘れなきゃ…って思いましたけど、
斎藤さんの事が、どうしても頭から離れなくて。
そうなると、ご飯も食べなれなくなっちゃうし、夜も眠れなくて、
お仕事も手につかなくなってしまいました。
でも、こんな私でも心配してくれる人達がいて、
お金を…五両貯めれば、会えるって言われたんです。
そうすれば斎藤さんに会えるからって。
それから一年間、一所懸命に頑張って働きました。
でも、働いているうちに…
斎藤さんには会えないって分かって来たんです。
それでも…望みがなくなっちゃったら、また患ってしまう気がして。
周りの人達が、頑張れって言葉を掛けてきてくれて、
支えられながら、ただただ働きました。
そうしたら、お金が貯まったんです。
やっぱり斎藤さんに会いたいと…
その気持ちだけは、変わらなかったんです」

話しているうちに、雪乃の瞳が滲んできて、
ぽとりぽとりと着物には、涙のしみが出来た。

「周りの人達に相談したら、
みんないい人達ばかりで…
私の為に、いろいろ考えてくれて。
こうして斎藤さんに会う事が出来たんです。
……斎藤さん、半年で五両貯めます。
そうしたら…もう一度だけ会ってくれますか?
お願いします」

深々と頭を下げたが、斎藤は黙って目を伏せている。

「私を…見てはくれませんか?
………良いです、それでも。
でも、この江戸の空の下で生きていれば、
きっと何処かで会えると望みを持っています。
信じています。
もし、斎藤さんを見つけたら、
その時は私から寄って行きます。
そうしたら…無視して通り過ぎないで、
『雪乃、元気か?』って、
言葉を掛けてくれませんか?
その一言で、生きて行けます」

溢れ出る涙を手で擦りながら、
それでも雪乃は精一杯微笑んだ。

それまで一言も発せず聞いていた斎藤は、
内心考えていた。

何の素性も分からない自分に会う為に、
一年間働き通し、
いつ会えるとも知れない男の言葉一つで生きていける…と
笑顔で、言い切るとは…な。

ふう、と吐息を吐き、

「今の話は、本当か?」

雪乃に問うた。

「はい、その証拠に…」

雪乃は袖から隠していた両手を出し、
藍色に染まっている指先を広げて見せる。

「この手は、どんなに洗っても落ちません。
紺屋職人の手の証ですから…」

一年前、 初めて会った時に、
この手を見て、

「紺屋職人か?」

そう斎藤は訊ねてきた。
しかし今は何も言わない。
やはり自分の事など、とっくに忘れていたのだろう…
雪乃は諦めの思いで、目を伏せる。

しばし、手に視線を落として見ていた斎藤が、
雪乃に向かって、静かに言った。

「来年三月十五日、
山田屋にて雇われている期限が切れる。
その時は、迎えに行く」

「……え?」

思いがけない斎藤の言葉を
即座に理解する事が出来ず、
雪乃は斎藤を見つめるしかなかった。

「来年三月十五日に迎えに行くと言った」

「……本当に?……約束ですよ…。
…私、ずっと待ってますからね」

「フン、どうやら俺は信用がないらしい」

ならば…と、
斎藤は懐に入れておいた袱紗に包まれた物を出し、
持っていた刀の鞘から小柄を取ると、
二つ並べて、雪乃の前に置く。

「証拠に、これを預けておく。
それまで…俺以外の用心棒など雇うなよ」

青に染まる雪乃の手を引き、
胸に抱き寄せると斎藤は囁いた。


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