紺屋桜小町
4
何だか、ふわふわした雲の上を歩いているような気持ちで、
雪乃は自分の店に帰って来た。
暖簾の前では、土方が腕組みし、
内心の心配を面に出すことなく、
彼女の帰りを待っていた。
「土方さん、ただいま戻りました」
「雪乃…やっぱり振られたか?」
「えっ!?雨は降ってませんよ」
空を見上げる雪乃に、
土方は、しびれをきらし声を荒げる。
「どうだった、って聞いてるんだよ!!」
「会えました…」
「そうか…会えたのか…。
まぁ、一夜の夢と思って、悔いはねぇだろう。
これからは斎藤の事は、すっぱり忘れて…」
「来年三月十五日に迎えに来てくれるって、
言ったんですよ、土方さん!!」
にっこり微笑む彼女に、
何だとっ!?と土方は驚くが、
すぐに首を振り、
「あのな、斎藤の言う事を真に受けてるんじゃねぇだろうな?
お前みたいな世間知らずの女を騙す台詞なんざ、
いくらでも吐ける…」
「そんなんじゃありませんっ!!
だってほら…証拠だってあるんですよ。
これを預かったんですから…」
強く抗議した雪乃は、
斎藤に渡された小柄と袱紗を自らの懐から取り出し、
土方に見せてみた。
「小柄じゃねぇか…ん?何だ、これは?」
袱紗を広げると、十両の金が包まれている。
「こんなもん預かって来たのか!?
…とにかく分からねぇ金だからな。
俺が預かっておく」
「土方さんっ!!」
「な、何だよ?」
文句あるのか?
そう雪乃に訊ねてみれば、
「よく考えてみれば…儲かっちゃいましたね!!」
心から嬉しそうな雪乃に、
土方は拍子抜けし、苦笑いする。
そして、
良かったな、と声を掛けた。
それから以前にも増して、雪乃は働くようになり、
今度は
「来年三月十五日が来たら、斎藤さんが来る」
と、唱えるようになったので、
「おい、雪乃。
お前のこと、『桜小町』じゃなくて、
『来年三月十五日』って名前で、
呼ばれるようになっちまうぞ!!」
そんな風に土方に注意されるほどである。
やがて年も明け、
睦月(一月)、如月(二月)、弥生(三月)となり───
その日は、朝から雪が降っていた。
ひと月ほど前から、店に奉公しはじめた小僧が、
店の外に出て来ると、
「おお、寒い」
自分の両手に白く見える息を吹きかけ、
擦りつける。
「おはよう、この荷物を土方さんの所に置いてくるね」
「あ、おはようございます、雪乃さん」
すぐそばにある土方の住まいに辿り着く
彼女の後ろ姿を見ていた。
雪乃さんは優しい人だ。
厳しい職人達に、自分が叱られた時に、
家への恋しさも手伝って
心細くなって、裏で泣いていたら、
お菓子を持って来て、慰めてくれた。
いつも笑っている…けど…。
ある時、
「来年三月十五日に、本当に斎藤さんて人は来るんですか?」
そう聞いたら、
「うん、来てくれるよ」
と、すぐに答えてくれた。
笑顔だったけど、雪乃さんの顔は何だか寂しそうで…。
聞いてはいけない事だと分かったのは、
言ってしまった後だった。
脇で聞いてた土方さんに、
「子どもは、つまらねぇ事聞いてねぇで、
さっさと仕事しろっ!!」
って、怒鳴られたけど…。
子どもながらに、
小僧は彼女の役に立ちたくて、
客が来る前に店の前に張った氷を割ることにした。
ふと、どこから現れたのか一人の男が歩いて来て、
ぴたりと店の前で足を止めた。
黒羽二重、五ツ所紋付、仙台平の袴を穿き、
大小を差している。
傘も差さずに歩いてきたその男は、
雪に黒い着物が映えていた。
「紺屋職人の『桜小町』の店は、ここか?」
随分、怖そうな人だな…と、
小僧は怯えつつも、
こくり、と頷いた。
「斎藤が来たと伝えてくれ」
斎藤…どこかで聞いたような…
次の瞬間、
あっ!!
と叫んで、土方の家へと小僧は
駆け出した。
「土方さんっ、土方さんっ、土方さ〜んっ!!!!」
土方は、
寝起きの白湯を口に運ぼうとしていたところに、
小僧の大声に邪魔され、
乱暴に湯呑みを台に置いた。
「おい、朝っぱらから騒いでんじゃねぇ!!
ただでさえ、ここの近所には変な奴ばかりが多いって、
噂になっちまってんだよ」
起きたばかりの土方の機嫌は、
殊の外、悪かった。
「ら、来年三月十五日が来ましたっ!!」
「…あのなぁ、
今日は三月十五日、
明日は三月十六日なんだよ。
しっかりしろよ、しっかりっ!!」
「さ、斎藤っていう人が来たんですっ!!」
「何っ!?
馬鹿野郎、すぐに言えってんだ。
雪乃、斎藤が来たぞっ!!」
二階にいる彼女に向かって、
土方が声を掛けると、
急いで階段を下りて来た雪乃は、
土方を突き飛ばし、
「何しやがるっ!!」
そんな声も全く耳に入らず、
玄関先へと向かったが、
勢いがつきすぎ、前のめりになったところに、
身体を支えられて───
「会うたびに転ぶな、阿呆」
へたり、と土間に座りこむ彼女が面を上げれば、
呆れ顔の斎藤がいた。
「斎藤さん…来てくれたんですね」
雪乃の大きな瞳から、
一筋、また一筋と涙が伝い降りてゆく。
「斎藤さん…」
信じられず、
ぎゅっと斎藤の黒羽織を握ってしまう。
彼の肩には、雪が残っている。
ふと、斎藤の口にした言葉を思い返し、
重要なことに気づく。
「…会うたびに転ぶな…って、
えっ?あの一年前に私と会った時のこと…
覚えていてくれてたんですか?」
「その手を見てな。
とっくの昔に思い出していた」
いともあっさり言う相手に、
雪乃は二の句が告げない。
「聞かなかっただろう?」
意地悪そうな笑みを浮かべ、
斎藤は答えた。
気が抜けた彼女は思わず、頭を垂れる。
「雪乃」
今度は何を言われるんだろう?と
雪乃が面を上げた時、
自分の名を呼んでくれた事に気づいた。
穏やかな琥珀が自分を見ていて───
「元気か?」
いつかの約束通り、斎藤は訊ねてきた。
「はい」
「…いい話じゃねぇか」
二人の様子を見ていた土方が思わず漏らせば、
「あれ?土方さん、泣いているんですか」
沖田が、からかうように言った。
「う、うるせぇ!!
これは…目から汗が出てんだよっ!!」
「目出度くおさまりましたけど…
さて、これからどうやって邪魔して
やりましょうかね?」
沖田が、さも楽しそうに
顎を撫でて、思案している。
「お前、本当に腹黒だな。
……しかし、斎藤は何だって、あんな格好で来たんだ?」
どうも解せない…
土方は首を傾げる。
「どこからどう見ても、お武家さんですよねぇ…?
用心棒ってより、隠密だったりして?」
「おい…山田屋にいたってのも、あながち…」
それ以上の詮索は考えまいと、
土方は、その件を取り消す事にした。
伊東が町を歩いていた時、
こんな会話が聞こえてきた。
「源ちゃん、聞いた?
紺屋職人の雪乃ちゃんの件だけど」
「ああ、どこでか用心棒をやってた男に、
『桜小町』をかっさらわれちまってよぉ…。
可愛くて、俺好きだったのになぁ…」
「でもまぁ、その男は剣の腕は立つし、
刀の目利きが出来るって事で、
お大名さんからも
依頼があるらしいよ」
「ふうん…でも、怖そうな顔してるよねぇ…。
それよか、雪乃ちゃんの職人の腕も、
ますます磨きがかかってるって話だぜ。
彼女が作り出した、
新しい藍色染めが良いって
評判になってるんだよ。
俺、また手ぬぐいを染めてもらおう」
「行こう」
そんな二人が行ってしまうと、
伊東は、ぱちんと扇を閉じ、
誰ともなしに呟く。
「評判は、もう一つありましてね。
『桜小町』に染めてもらうと、
恋が叶うらしいですよ」