「今日は午前10時から12時まで会議が入っております。
午後からは取引先へ14時に…」

いつも通り、秘書である彼女が日程を読み上げているのを席に座り、
椅子の背にもたれて黙って耳を傾けている上司。
昨夜の件で何か言われるのではないかと、恐れながら出勤したのだが、
彼の態度はいつも通りだった。
何事もなかったかのように─

杞憂だったの?

「…分かった、会議で必要な資料は揃えてあるか?」

「は、はい。準備しました。こちらです」

受け取ると1ページずつ捲りながら、目を通し始めた上司の表情を傍らで眺めているしかない。
ページを捲る音だけが部屋に響いてゆく。

「…そろそろ、行くとするか。昼食は、時間が来たら取っていい。それと…」

腕時計をちらりと見て、立ち上がると、
背広の胸ポケットから取り出し、机の上に置いた。

「忘れ物だ」

「っ!?」

一瞬、真っ赤になり、我を忘れて自分の携帯電話を胸元に強く押しつけた彼女の様子を
上司は無表情のまま、それを見ても一言も発する事なく、会議室へと出て行った。

どうにか落ち着きを取り戻し、仕事をする為に自分の席に着いて
しばらくパソコンを操作していた彼女の手が、いつの間にか止まっていた。

彼から逃げ出したのを罵られるか、罵倒されるか、嘲られるか…

自分の家に帰宅してからというもの、ろくに眠る事も出来ず、
あらゆる事を考えてみたのだが、予想とは全く違った上司の反応に
完全に戸惑っている。

なかった事にしたいのかしら?

窓から見える曇った空のように気分は晴れなかった。

「ここ、いいかしら?」

社員食堂で昼食を取っていた彼女だったが、あまり食欲もなく、
フォークでサラダをいじっていた時、脇から掛けられた声に、
はっ、とした。
エレガントなスーツを着こなした細身の女性がトレイを持って微笑んでいる。

「あ、はい…。どうぞ…ええと、」

「総務部にいる桂木よ。
以前、斎藤部長とあなたを引き合わせた時に会ったんだけど?」

そういえば…そうだった。

「す、すいません!!」

「気にしなくていいわ。それ以来、ほとんど顔を合わせなくなったし」

謝る彼女を、にこやかに笑い飛ばす桂木と名乗った女性は気さくそうで、
話しかけやすい人柄のようだと彼女は思った。
隣に腰かけると桂木はランチを美味しそうに食べ始める。
彼女は再びサラダ見下ろしフォークでレタスとミニトマトをいじっていた時、

「羨ましいわね、あなた」

「は?」

唐突にそう言われたので、思わず面を上げ、不思議そうに隣に座る桂木を見た。

何が羨ましいというのだろう?

「斎藤部長の下で働けるという事が、よ。秘書が就くという話が出た時、
狙っていた女性、何人もいたんだから。
揃いも揃って、容姿端麗、頭脳明晰が、そりゃもう、わんさか…と」

「そ、そうなんですか?」

初耳である。

「あれでも人気あるのよ。無口だけどあの渋さと人を寄せつけない影のある魅力が
たまらないってね。勿論、仕事は出来るし」

「影のある魅力…ですか」

仕事は確かに出来るが─そう言えば、バレンタインのチョコの数は予想外に
多かった。義理チョコだと思っていたが、この女性の話を聞いた限り、
本命チョコも混ざっていたのだろう。
甘い物が苦手だと、本人は、うんざりしながら、こぼしていたが…

彼女がコップの水を一口飲んだ時だった。

「あなたって、部長の恋人なの?」

むせって口元にハンカチを押さえる彼女が落ち着いた状態になるまでの間、
桂木は、軽く彼女の背を叩いてやりながらも我慢強く返事を待っている。

「そ、そんな事っ!!」

「あら?違うの?斎藤部長は、随分あなたにご執心だったのよ。
あの時だって…ふふふ」

首をかしげ、意味深な笑みを浮かべた。

「え?」

「秘書を選定する時、あなたの写真を見た斎藤部長が押しの一手でね。
決まっちゃった訳」

「そ、そんな…私は、ただの上司と秘書にすぎないと思ってますから」

「そうね。でも、男と女でもあるのよね」

困った彼女の顔を見て、桂木は、おかしそうに笑う。

「頑張ってね」

彼女の肩を軽く叩き、食事を終えて桂木は席を立っていった。

何だか…からかわれたみたい。

「気に入った物が手に入れば、後は無用になるのかしら?」

結局、残してしまったサラダを見下ろして呟いた。

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