「もう、帰りますから」
「……丁度良い。話がある」
「午後は特に重要な電話は入りませんでした。
それと整理している途中の資料は月曜には…」
席を立ち、机上を片付けながら話し続ける彼女の言葉を
上司が遮った。
「仕事の話じゃない」
「……そう、ですか。
でも、仕事以外で部長が私にお話する事など何もない筈です…」
「どういう意味だ?」
目を合わせようとしない彼女に微かに苛立った口調で一歩近づいた途端、
ひどく身を強張らせた彼女に上司は立ち止まる。
上げかけた腕をゆっくりと下ろし、
顔を伏せたままの彼女に、それ以上、近づくことはなかった。
突然、携帯の着信音が鳴った。
チッ、と舌打ちし携帯に出る。上司が話している間に彼女は、すばやく片付け、
お先に失礼します、と一礼して逃げるように部屋を出た。
春先とはいえ、風が強く吹いている歩道を彼女は歩いている。
自分の携帯の着信音が鳴り出した。
バッグから取り出すと、見知らぬ番号が画面に出ている。
誰だろう?と訝しく思いながらも、通話ボタンを押してみた。
「…もしもし?」
「阿呆。話がある、と言っただろう」
「ど、どうして、私の携帯番号を知っているんですか?」
「一晩、俺に預けさせておいたのは、どこの誰だ?」
「……そ、それより、お話する事は何もないと…」
ため息が一つ聞こえた。
「こっちには、あるんだよ」
今の声は、携帯を通じて聞こえた声ではない。
背後から強く引き寄せられ囁いた唇は彼女の頬に触れるか触れないかの距離にある。
我に返り、身体をもがこうとした時には、
すでに車中に押し込まれている状態になっていた。
「ちょっと、つきあえ」
上司も隣に、すべり込むように座る。
「出してくれ」
「はい」
運転手は頷くと、車を発進させた。
「…い、一体、どこに連れて行く気ですか?」
「ホテルでも、いいぞ。その方が手っ取り早い」
怯んだ彼女を皮肉の入り交じった表情で見、
いつものように胸ポケットから煙草を取り出すと火を点け、吸い始める。
落ち着きなさそうに両腕で自分の体を抱きしめる彼女の仕草を脇目で見ながら、
「そう、警戒するな」
と斎藤は溜息混じりに呟いた。
昨日も車の中に、こうして隣で座っていた。
思えば、たった一日過ぎただけで、状況がなんと変わってしまっただろう…
「どこに行くんですか?」
再び尋ねたが、
「到着すれば分かる」
とだけ、答えが返って来た。
彼女は諦めて視界を遮断する事に専念する。
ともすれば惹きつけられてしまう隣にいる存在を見ないように─
だが…
「男の事でも考えているのか?」
唐突すぎる質問に、このまま黙って無視しようとも一瞬、彼女は考えたが、
こちらが答えるまで、追求は揺るがないだろう。
諦観し、閉じていた瞳を開くと、上司を見た。
「誰の事です?」
「昨日の…約束していた奴の事だ」
「?どうして彼の事を考えなくちゃならないんですか?」
今朝、すぐに電話し、昨日の件を詫びておいたのを思い出す。
気にするな、と相手は、快く許してくれた…。
「ほう。恋人にしては、随分冷たいお言葉だな…」
「違います。彼は大切な友人の一人です。
私の言葉を信じる、信じないは、ご自由ですが…」
しばらくの間、上司は彼女のまっすぐ見返してくる双眸を直視していたが、
「そうか…」
煙草を口元に運ぶ。
「成程」
煙草を揉み消すと、それ以上、何も問わなくなり、窓の外に目を向けていた。
隣にいる上司の考えてる事が全く分からず、彼女は途方にくれるしかない。
ふと、隣の上司の組んでいる膝の上に置かれた手に目が吸い寄せられた。
細くて長い官能的な指先だ、と思う。
昨夜は、自分の身体を撫でて…
赤く染まった顔と鼓動が高まった音が隣にいる上司に気づかれませんように…、と
彼女は、ますます強く両手で自分の身体を抱きしめた。
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